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その日、百地は虚ろな気持ちで、一人帰っていた。頭の中には、異常なまでに人との付き合いが下手な木戸のことや、それを陰で笑っている人たちのことばかりだった。
「ねぇねぇ、君」
そのため、声をかけられても、彼女は気付かなかった。
「ねぇってば!」
突然、男が目の前に現れ、彼女の行く手を遮った。
「無視するなんて、酷いんじゃないの?」
気付くと、数名の男に囲まれていた。全員が下卑た笑みを浮かべ、百地が怯える姿を楽しんでいた。彼女は怯えるばかりで、何をどうするべきか分からなかった。囲まれているため、逃げることもできず、恐ろしさのあまり、声を上げて助けを呼ぶこともできなかった。
きっと、あのときの子犬もこんな気持ちだったのだろう。恐ろしくても、何もできないし、誰も助けてくれない。どうして助けてあげなかったのだろう。どうして私は勇気を出せなかったのだろう。そうだ、あのときの自分も怖かったからだ、と思い当たる。
でも、木戸は、平然と躊躇うこともなく、子犬を助けた。木戸はそういう男だ。百地優花梨は恐怖の中、頭の中で木戸に謝罪した。木戸の表面的な部分ばかりを気にしたことを。木戸の心根にある優しさを忘れていたことを。
男たちのうち一人が、百地優花梨の肩に腕を回した。そして、無理矢理どこかへと誘導される。何をされるのか、想像することも恐ろしく、どんどん頭が真っ白になっていた。
彼女が誘導される先には、一台のワンボックスカーがあった。あれに乗らされるに違いない。そしたら、どこかへ連れて行かれ、もっと酷い目に合うのだ。
もし、帰ってこれたとしても、自分は何かを失ってしまっているだろう。抵抗しても男の力強さを知るだけだった。一方的な暴力とは、こんなにも恐ろしいものなのだ。しかし、そんな彼女を助けたのものも、一方的な暴力だった。
そのとき、彼女は初めて人が飛ぶのを見た。
もちろん、翼が生えて飛び立った、というわけではないし、気持ちよさそうに浮遊するわけでもない。誰かが綿人形でも放り投げたみたいに、人が放物線を描いて、飛んで行ったのだ。百地優花梨を囲んでいた男たちは、何があったのかと振り返る。そこに立っていたのは、
木戸だった。
文字通り、鬼の形相で。
「なんだ、てめぇは!」
男たちが怒号を飛ばすが、静かになるまでは、それほど時間はかからなかった。五、六人の男たちが倒れている中、木戸は傷だらけで立っていた。
木戸が一人で暮らすアパートで、彼の手当てを行った。百地は木戸の手当てを行いながら、彼に感謝しつつも、どこか暗い気持ちがある自分に落胆していた。
すると、何者からか、木戸にしつこく電話があった。あまりにしつこいため、電話に出る木戸だったが、その表情が朱に染まるところを見て、百地はこれから嫌なことが起こるだろう、と理解する。
「さっきのやつらだ。三日後、学校の近くにある公園に来い、って」
どうやら、木戸の電話番号をどこからか入手し、報復を宣言してきたらしく、呼び出されたらしい。
「行くの、やめなよ」
百地は呟くように、木戸を止めた。木戸は少し意外そうに彼女の顔を見る。
「ヒロは…何でも暴力に頼り過ぎだよ。今はそれでも良いかもしれないけどさ…大人になれば大人になるほど、通用しなくなると思うよ」
「……分かっている」
「本当に分かっている? ヒロは何でもすぐに怒って、すぐに喧嘩しちゃうじゃん。今までそうだった人が、急に変われると思う?」
木戸は答えなかった。黙られると、なぜか百地の怒りは増した。
「私たち、もう高校卒業するんだよ? ヒロは進学するつもりはないだろうし、たぶんどこかで働くはずだよね。そしたら、今みたいなやり方、誰も認めてくれるわけないよ。今だって目立ってて、色々な人から目を付けられてさ、何か因縁つけられても、少しも我慢できないよね。働き出したら、職場の先輩に注意されるよ。怒られるよ。馬鹿にされるかもしれないよ。優しく接してくれる人ばかりなら良いけど、そんなことは絶対にないから。嫌な言い方されることもあれば、思い通りにならないことだって、たくさんあるよ。それで、今みたいにすぐ手を出したら、絶対にクビだよ。本当に今もそういうこと考えれているなら…」
百地優花梨の声は途切れた。木戸に頬を打たれたのである。
「ほら、やっぱり…そうやって、すぐに暴力で何とかしようとする!」
百地は頬を抑えながら、叫ぶように言った。彼女にとって、未だかつてないほど、感情的になった瞬間だった。
「出てけ」
木戸は罪悪感から声を荒げることはなかった。それに対し、百地は甲高い声で「馬鹿!」と言って木戸の部屋を出た。
自宅に返ると、百地の姿を見た両親から酷く怒られた。頬が腫れもあり、学校を休むことにしたが、何日か経っても、苛立ちが収まらず、誰かに宥めて欲しかった。
そこで思い浮かんだのが、新藤の顔だった。
呼び出した新藤は、暴力と無関係で、どこまでも優しかった。こんな世界が…こんな選択肢もあるのだ、と百地は不思議に感じた。
新藤と話したせいか、少しずつ気持ちが冷静になった。翌日になると、彼女は木戸に酷いことを言った、と後悔した。木戸は自分のために、体を張ってくれた。
それは、自分にはできなかったことだ。あのとき、子犬を助けられなかったように。どんな時でも、勇気を出して、当然のように他人を助けられる。そんな木戸の行動は、彼の底に深い優しがあることを証明していると言って良いはずだ。
だから、百地は木戸のもとへ走った。新藤には止められたが、その手を振り払い、彼女は走った。喧嘩を終えた木戸は、やはり傷だらけだった。
「ごめんね、ヒロ。私のために、ごめんね」
何度も謝る百地の頭を、木戸は優しく撫でる。今まで、何を迷っていたのだろうか、と百地は思った。
木戸をどこまでも信じよう。百地は覚悟を決めたのだった。




