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「せ、瀬崎さん……どうして、ここに?」
震える声で聞いてきた文香を何とか立たせる。
「詳しいことは後です。早く逃げましょう」
瀬崎は文香の腕を引くが、彼女が小さく呻き、顔を歪めたことに気付いた。
「先生?」
「足を捻ってしまって…」
怪我をして走れないようだが、この危機を前にして動かないわけにはいかない。瀬崎は肩をかして、今にも立ち上がりそうな人形から離れようとした。
「瀬崎さん、痛い。もう少し、ゆっくり…」
「先生、我慢してください。きっと、新藤さんたちが助けにきてくれますから。今は少しでも遠くへ!」
しかし、二人はバランスを崩して倒れてしまう。瀬崎はすぐに立ち上がり、振り返って人形を確認した。人形は既に立ち上がり、こちらへ向かってきているではないか。もう一度、彼女に肩を貸して何とか走り出したとしても、すぐに追いつかれてしまうことは、目に見えている。
やるしかない、と瀬崎は決意した。
瀬崎有栖は自分が異能力者である、という自覚は殆どない。なぜなら、傍に異能力者が存在していて初めて意味を持つ能力だからだ。異能力を封印、解除する能力。今でも上手くコントロールできない能力であるため、無意識に使ってしまい、子供の頃はよく伯父に嫌な顔をされたものだ。だから、この無意味な力が自分でも煩わしいと感じることもあった。
しかし、今はこの能力に感謝している。なぜなら、他人を守るために役立つかもしれないからだ。
ゆっくり、こちらに近付いてくる人形を見据える。深呼吸を繰り返し、能力を発動させた。一瞬、人形の足が止まって手応えを感じたが、すぐに何事もなかったかのように歩みを再開させる。
きっと、集中力が足りないのだ。瀬崎はもう一度大きく息を吐いてから、意識を目の前にいる人形だけに集中させた。背景が消失し、真っ暗な空間に人形と二人きりになったような錯覚を起こすくらい、瀬崎は集中力を高めた。
そして、自分の力で人形を包み込むようなイメージを描く。すると、人形の動きが確かに鈍った。歩きにくいのか、まるで体重が十倍になったように足を引きずり、歩くことを困難に感じているようだ。
「瀬崎さん、貴方が…?」
背後で、文香の声が聞こえたが、それに応える余裕はない。なぜなら、人形の動きを鈍らせ、能力を維持するだけで、体力が消耗するような感覚があったからだ。
これでは駄目だ、と瀬崎は思う。少し前、彼女は如月が自分と同じ能力を使う様子を見た。それは、瀬崎が使う能力と結果が同じと言うだけで、まるで違うものだった。効果が、規模が、精度が、瀬崎が使う力よりはるかに上だったのだ。
もっと、如月のように力を使わなければ。そうでなければ…。
一瞬の雑念が集中力を途切れさせてしまった。すると、人形は枷が外れたように、一度だけ前のめりになると、勢いよく走り出す。人形もこの瞬間をチャンスと見たらしい。
「瀬崎さん、こっちにくる!」
文香の声を背に受けながら、力を集中させた。命の危機を察した故に、急激に高まった集中力は確かに人形の動きを鈍らせるが、既に瀬崎と人形の距離は殆どない。加速していた人形は、急に自由を奪われ、倒れ込むようにして瀬崎へ突っ込んできた。
能力をコントロールすることに注力していた瀬崎は、それを回避する術がなく、巻き込まれてしまう。体を硬いコンクリートに打ち付け、さらにその上を何度も回転してから、やっと止まった。痛みはあったが、意識に影響があるほどではない。すぐに顔を上げて、人形の行方を確認する。
人形は立ち上がるところだった。瀬崎よりも、文香に近い場所で。




