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クレア・ウォンは、父の葬儀を終えると、なぜか日本に戻っていた。父の命を奪ったこの地に、何を求めているのか、自分でも分からない。
多くの国を転々として仕事をこなしてきたクレアがその気になれば、この地で新たな生活を築くことは難しくないはずだが、どうもやる気が起きず、ふらふらとしていた。
そして、今日も何をするというわけでもなく、どこかの錆びれた商店街を歩いている。
「お腹空いた…」
地面に向けられた呟きは、無意識に出たものだった。そして、言葉にしてしまうと、世界の底を垣間見てしまったような、絶望的で途方もない空腹を感じた。半ば放心状態でさ迷うだけのクレアだったが、強い喪失感の中でも空腹を忘れない、人体の仕組みに皮肉を感じるのだった。
そう言えば、もう一週間はまともに食べていない…気がする。
すると、眩暈に襲われ、足元も覚束なく、ふらついてしまった。どうにか、目の前にある看板に手を置いて体を支えようとしたが、足がもつれる。結果、目の前にあった看板を抱えるようにして倒れてしまった。
立ち上がろうにも、力が入らない。これは死ぬかもしれない、とクレアは思うしかなかった。
先生、申し訳ありません。
せっかく生かしてくれたのに、私はここまでのようです。
あの世で待っているだろう父に祈る。すると、それが天に通じたのか、父の声が聞こえてきた。
「ちょっと、君。大丈夫?」
クレアはその声に反応し、勢いよく身を起こした。
だが、もちろん彼女を呼んだ相手は、父ではない。
父と同じ程度の齢と思われる男が、心配そうに目を細めているだけだった。
「先生、じゃない…」
「先生?」
と老いた男は首を傾げる。
よく聞けば、声も似ていない。
ただの空耳ではないか、と思うと、またも体から力が抜けて、項垂れてしまうのだった。
「どうかしました? どこか具合が悪いなら、救急車を呼びましょうか?」
情けない、とクレアは思う。
自分がこんな目に合っている原因は、何もかもあの探偵のせいだ。
あいつがいなければ、こんな惨めな想いはしなかったのに。目頭が熱くなると同時に、闘志が湧き、彼女は立ち上がった。
クレアの表情を目にした老人が
「おおおぉ」
と感嘆の声を上げるほど、彼女は怒りに満ちていた……
が、涙と共に出てきた言葉は情けないものだった。
「お腹が減って…死にそうなんです」
そう言って、彼女はまたもその場に座り込むのだった。
数分後、クレアは老人が営む店で、食べ物を与えられていた。彼は、クレアが一緒に倒れた看板の持ち主だったが、行き倒れ寸前の異国の女を、流石に見捨てられなかったらしい。
久しぶりの満腹感に蘇ったクレアは、深々と頭を下げた。
「店主、助けていただき、誠にありがたいことですが、私は金を持っていません。どうか別の方法で恩を返させてもらえないでしょうか?」
「いや、大丈夫だよ。それよりも……」
老人はクレアを風呂に入れ、寝床を提供した。さらに、夕飯まで出してもらった彼女は、またも涙を流し、老人に礼を言った。
「これでは、恩を返しても返しきれません。何か困っていることはりませんか? 何でもします。そうですね、体力には自信があります。揉め事の解決なら任せてください。敵対勢力を壊滅してみせます。復讐なんて考えられないほど追い込むことだって、私には可能です。武装集団だとしても問題ありません。マフィアの隠れ家程度であれば完全に制圧してみせます」
「武装集団? マフィア? よく分からないが、別に良いよ。それより、生活の当てはあるのかい?」
「ありません。が、まずは貴方に恩を返さなければ」
「そんなことを言われてもね…」
眉を八の字にして、困惑する老人に対し、クレアは畳みかけるように言った。
「あと、得意なことと言えば、気配を消すことです。どんな場所であっても忍び込んで見せます。秘匿された情報、厳重な警備で守られた財宝も盗み出せるでしょう」
「盗み……?」
老人の目は鋭く、剣呑な何かがあった。
「盗みか……」
老人の呟きに、クレアは少しだけ目を細めた。
このとき、クレアはただ得意なことを列挙しただけであり、老人が「盗み」という言葉に反応するとは、思いもしなかった。
しかし、これをきっかけにクレアは奇妙な事件に巻き込まれることになる。
そして、思いもよらぬ再会が待っているとは、この時点では知る由もなかった。




