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「ちゃんと、自分の気持ちを伝えるべきだった…って、後悔すること、あるよね」
久しく依頼人が訪れていない如月探偵事務所で、所長の如月葵はぼんやりとした調子で呟いた。誰にともなく、といった呟きだったが、片付いていないこの事務所で彼女の言葉に耳を傾ける人間はただ一人。彼女の第一助手である、新藤晴人だけだ。
「……まぁ、そうですね。あると思います」
新藤は如月の話を真面目に聞くかどうか、判断するためにも、慎重に反応した。
「昨日ね、帰りにいつものハンバーガーショップに寄ったのさ」
しかし、話は問答無用に始まる。新藤としては、溜まった事務仕事を処理するためにも、長い無駄話は避けたかったが、それは許されないらしい。
「期間限定でおまけのオモチャが付いてポテトも無料増量中、って聞いてね。昨日はそれだけを楽しみにして仕事を頑張ってたわけよ」
「頑張っていた……?」
新藤が見ていた限り、如月は一時間ごとに数回、目の前にキーボードに触れてパソコンを操作していたが、殆どはぼんやりとしていた…ようだったのだが。
「それでね」
新藤の不信感に溢れた視線など、お構いなく如月は続ける。
「ハンバーガーとポテトのセットで注文して、家に帰ってからゆっくり食べようと思ったの。でも、一本くらいなら歩きながら食べても罰は当たらないだろうと、袋を開けて中身を確認してみたんだ」
新藤は、何となく話の先が読めたが、黙って耳を傾けた。
「そしたら、増量中のポテトがさ…いつもとあまり変わらない量だったの。これ、店員さんに確認すべきかな、と思って振り返ったのだけれど、すごい長蛇の列で空気もピリピリしてて。私も接客の経験があるからさ、このタイミングで声をかけるの、凄い気が退けたんだよね。でも、家に帰ってから増量しているのか分からないポテトをつまんでいたら……」
「納得できなかった?」
声を詰まらせる如月をフォローするかのように、新藤が付け加えると、彼女は心なしか涙目で頷いた。
「悔しくて堪らなかったんだ。増量中のポテトを食べることだけを楽しみにして頑張っていたのに、いつもと変わらないものを食べているとしたら、何て惨めなことなんだろう、って。だから、どんなに迷惑そうな顔をされたとしても、ちゃんと店員さんに言うべきだった。気持ちを伝えるべきだったんだ」
「このポテト、ちゃんと増量されてますか…って?」
如月は頷く。
しばしの沈黙の後、新藤は溜め息を吐いた。
「それ、実際に増量されていなかったんですか? 如月さんがそう感じただけのことですよね?」
「そうだよ。でも、私はあそこのポテト何年も食べているんだから、増えているかどうかくらい、絶対に分かるよ。それにね、実際のところはどっちでもいいんだよ。私は増量中のポテトを楽しく食べたかっただけなんだ。本当に増量しているだろうか、なんてモヤモヤした気持ちで食べるくらいならね、ちゃんと言うべきだった…っていう話なの」
新藤はそれ以上、何も言うべきことが見つからなかった。ただ、ポテトの増量だけでこれほど一喜一憂できる如月の精神性に驚嘆するばかりである。
きっと、彼女はケチではない。
ただ探求心の強さがあるだけ。
そして、その探求心こそ、彼女を探偵たらしめているのだ、と。
如月を尊敬する気持ちを損なうことがないよう、自分に言い聞かせる新藤だったが、彼女は「だからさ」と続けた。
「だからさ、今から買ってきてよ、増量中のポテト」
「僕がですか?」
「うん。たったそれだけで、私が気持ちよく仕事できるんだよ? そしたら、大口の依頼が入ってくるかもしれないし、結果として君の財布も潤うはずだ。後、おまけのオモチャも数量限定だから、早めに買わないと」
「おまけのオモチャって…… そんなガラクタ、どうして集めるんですか?」
「どうしてって……可愛いじゃん」
どこが可愛いのか、と新藤が問いかけようとしたとき、古びた等々力ビルの階段を上る足音が聞こえてきた。二人は反射的に口を閉ざし、その音に耳を傾ける。すると、事務所がある三階で止まり、思わず顔を見合わせた。
「如月さん、ポテトとオモチャのことは忘れて、所長らしくしてくださいね」
と新藤は声を低くして言う。
「もちろん、分かっているよ」
如月は背筋を伸ばし、カーディガンを羽織り直す。それと殆ど同時のタイミングで、事務所のドアを何者かがノックした。
「どうぞ」
新藤が声をかけると、ゆっくりとドアが開かれた。そして、中を覗き見るように顔を出した人物は…若い女だった。久しぶりの依頼人だ、と肩に力が入っていた新藤と如月だったが、その女性の顔を見て、少しばかり気が抜けてしまった。なぜなら、その女性が何かしらのトラブルを抱えているとは思えなかったからだ。
「こんにちは。また来てしまいました」
と来訪者は笑顔を見せる。
「瀬崎さん」
複雑な感情を抱きながら、新藤は笑顔を見せた。
彼女の名前は瀬崎ありす。
以前、彼女がトラブルに巻き込まれた際、新藤と如月の活躍によって助け出した女子大生である。
彼女はそのときのお礼と言って、差し入れを届けに事務所へ訪れることが頻繁にあった。今日もそのつもりなのだろう。依頼かもしれない、と行き込んでいた新藤と如月からしてみると、思わず肩を落としてしまいそうだった。如月に関してはあからさまに虚しい目を窓の外へ向けている。
「あの…今、大丈夫ですか? 忙しいですよね?」
瀬崎は、二人があまりに不自然な態度だったため、遠慮がちだ。
「忙しいよ。忙しすぎて仕事する気がなくなったくらいだ」
如月が項垂れると、瀬崎は慌てて頭を下げた。
「すみません、忙しいところに押しかけてしまって」
「良いんだよ。如月さんはいつもあんな感じだから。良かったら、ゆっくりして行ってください。お茶でもどうですか?」
そう言って、新藤が席を立ち、来客用のカップなんかを準備し始めると、瀬崎が
「あ、違うんです」
と引き止めた。
「今日は調査の依頼がありまして…」
瀬崎の話は、知り合いが奇妙な現象に悩まされているため、相談に乗って欲しい、というものだった。新藤は相談者である、高月文香の名前を簡単に調べてみると、あることに気が付いた。
「もしかして、相談者の高月文香さんって……高月文也の奥さんじゃないですか?」
「誰、それ」と如月。
「ベンチャー企業の若手社長として有名な人じゃないですか? 経済とか技術系のニュース記事で、よく見る名前ですよ。確かまだ四十代の若さで、すごい稼いでいるんですよね」
著名人の名を見て、やや興奮する新藤だが、如月の関心は薄い。
「あー、そっち系の金持ちね。どうせ鼻持ちならないやつなんだろう? ちょっと成功したからと言って自分の価値感を他人に押し付けて、さらに調子に乗ると世間の判断基準も自分の思い通りにコントロールしようとする、傲慢なやつだ。そんなやつらの対手をする分、相応の料金をもらえるならいいけど……」
悪態を吐く如月だったが、彼女の言葉が途切れると同時に、小動物の呻き声のような音が聞こえてきた。如月が僅かに顔を赤らめながら、腹部を撫でているところを見ると、腹の虫が鳴ったらしい。
「まぁ、背に腹は代えられぬってやつだね。新藤くん、瀬崎さんの話を詳しく聞こうじゃないか」
表情を明るくさせる新藤と瀬崎だったが、続いた言葉はこれだった。
「ただ、手持無沙汰だから、いつもの店でポテトを買ってきてくれ。オモチャ付きのやつね」
如月は祈るように胸の前で手を組むと、目を輝かせた。
「これで私のコレクションが増える。胸が弾むなぁ」




