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アルバイトを終えて、アパートに帰ると、錠本の部屋の前で満樹が気を失っていた。
扉に背を預け、僅かに呼吸音が聞こえてくる。錠本は察した。例の危険な仕事で失敗したのだろう、と。
錠本は冷静に彼を部屋の中に運び込み、手際よく応急手当てを施す。どうやら命に支障はなさそうだ、と錠本が一安心の息を吐くと同時に、インターフォンが鳴った。
まさか、満樹が誰かに追跡されていたのだろうか、と警戒心を高めたが、ゆりこと夕食を共にする約束をしていたことも思い出した。ドアを開くと、やはりゆりこの姿が。
「亮ちゃん、約束の時間、三十分も過ぎているよ」
怒りをアピールするように眉を寄せるゆりこだったが、すぐに部屋の奥で眠る満樹の存在に気付き、驚いたのか反射的に胸元のロザリオに触れていた。そして、顔を曇らせると、視線だけで錠本に説明を求める。
「……友達なんだ」
「怪我しているみたい。大丈夫なの?」
「たぶん」
錠本の言葉が信用できなかったのか、ゆりこは部屋に上がり込み、満樹の怪我の状態を確認した。だが、彼女は錠本の完璧な処置を見ただけで、特に何もやるべきことはないと悟ったらしかった。
「病院に連れて行かないと」
「瀬崎の教会でお世話になる前の友達なんだ」と呟く錠本。
ゆりこは事情を察し、それ以上は追及しなかった。
満樹の寝顔を見るゆりこの顔は、どこか青ざめていた。血の匂いがする非日常的な光景は、きっと彼女にとっては恐ろしいものなのだろう。それでも、ゆりこは淡々と看病を手伝ってくれた。
ゆりこが自室に戻ってから程なくして、満樹は目を覚ました。
「どうして助けた?」
「親友が助けを求めているのに、助けない方がおかしい」
満樹はなぜか呆れたような顔を見せ、何とか身を起こそうとしたが、痛みに襲われたのか、ベッドに倒れた。
「助けろとは、言っていない」
拗ねるように口を尖らす満樹を見て、錠本は頬を緩めた。
「だったら、どうして僕の部屋の前にいたんだ。あれは、助けてくれって意味だろう」
何も言い返そうとしない満樹に、錠本は重ねて言った。
「僕に対して強がってどうするんだ。ちゃんと休んで怪我を治すと良い」
「そうかよ。だったら、遠慮なく休ませてもらうよ」
彼が目覚めたら、と言ってゆりこが準備した食べ物を、満樹の口に運んでやった。
「美味いじゃないか。良い嫁になりそうだな、お前」
「作ったのは僕じゃない」
「へぇ」
次の日も錠本はアルバイトがあったが、店長の嫌味を聞きつつ休みをもらい、満樹の看病を続けた。満樹が眠っている間、錠本は外に出て怪しい人物がいないか、周辺を見回った。
明らかに常人ではない気配をまとって歩く男を何人か目撃する。もしかしたら、満樹をこの辺りで逃がしたのかもしれない。
彼らの拠点を把握し、しっかりと話を付ける必要性を感じたが、それを達成するには時間が必要だ。その間、満樹を放っておくことはできない。
「少しだけ、あいつを見ていてほしい」
「……亮ちゃんがどうしてもって言うなら、いいけど」
不安があるのか、ゆりこは胸元のロザリオを握りしめていた。しかし、錠本が頼る相手は、ゆりこしかいない。心優しいゆりこなら、快く受け入れてくれるだろうと思ったが、前向きと言うわけではないようだ。
「申し訳ないけれど、お願いするよ」
その夜、錠本は再び周辺で怪しい動きをする男たちを突き止め、その後を追った。地味な作業ではあったが、幼少期に叩き込まれ、錆び付くことがないように鍛え続けていた感覚が、次第に研ぎ澄まされていることを感じた。
だから、敵の拠点もスムーズに突き止めることも成功し、その建造物の中もある程度だが把握できた。
その日は、それまでにして、自室に帰ると、満樹は眠り、ゆりこはそれを見守るように椅子に座っていた。礼を言う錠本に「外で少し話したい」とゆりこが言い、二人は部屋を出た。
「ねぇ、亮ちゃん。いつまで彼を泊めておくの?」
「どうして……?」
ゆりこは目を逸らすと慎重に言葉を選んでから、恐る恐るとった調子で口を開いた。
「分からないけれど、何だか嫌な感じがするの。彼が傍にいたら、私たちは不幸になってしまう気がする」
満樹が纏う血の匂いが彼女にそう思わせたのだろうか。自分自身はそれを何年もかけて洗い流したが、彼はさらにその匂いを濃くしてしまった。ゆりこのような人間が恐れてしまうことは仕方ないだろう。
しかし、彼女は錠本と自分のことを「私たち」と言った。そこに、これからも続く強い絆を感じる。それは錠本にとって守り続けるべきものだった。
「大丈夫、ゆりのことは必ず僕が守る。だから、もう少しだけ協力してほしい」
ゆりこは納得していないようだったが、ゆっくりと頷いた。
必ず守る。その想いは錠本の感覚を、さらに研ぎ澄ませた。
敵の拠点に潜入し、奇襲も成功した。ただ、自分に血の匂いが付いてしまうことはないよう、誰一人殺さなかった。それでも、しっかりと話を付けられたことは、自分でも誇らしいことだ。胸を張って、ゆりこのもとに帰った。
「俺のことを女に任せて、一晩中何をやっているんだ?」
帰った錠本を見て、満樹は笑った。どうやら、ゆりこは帰ったらしい。
「具合、良さそうだな」
「おかげさまで」
顔色も良いところを見ると、急速に回復したようだ。錠本が思っていたよりも、傷が浅かったのかもしれない。ゆりこの看病が気に入ったのか、満樹は言う。
「あの女もなかなか面倒見が良いな。どこで見付けたんだ?」
どうやら満樹は、ゆりこがあの教会の娘だということに気付いていないらしい。それとも、忘れてしまったのだろうか。錠本はそこに触れることはなかった。
満樹が調子を取り戻し始め、錠本は久々にアルバイトへ行くことにした。部屋を出ると、ゆりこがちょうど帰ってくるところだった。
「ねぇ、彼は一人で大丈夫なの? 良かったら面倒見ておこうか?」
「大丈夫だとは思うけれど、念のため、これを持っておいて」
そう言って、錠本は自室の鍵をゆりこに渡した。
それから程なくして、満樹は歩けるようになるまで回復した。錠本とゆりこが交互に看病した成果なのか、回復のスピードは凄まじいように思えた。
また、満樹の表情に笑顔が増えた気がした。今までも、彼が笑わなかったわけではない。ただ彼は、相手が求めるリアクションを選んだ故の笑顔、といった表情が多かったのだ。
それは、どう考えてもゆりこが与えたものだった。だから錠本は彼女に言った。
「ありがとう。あいつがあんな風に笑うようになったのは、絶対にゆりの力だよ。僕がそうだったように、あいつもゆりに救われたんだと思う」
ゆりこはどこか照れ臭そうに笑うだけだった。錠本は、そんな彼女の表情が眩しくてたまらなかった。そして、彼は誓う。いつか、自分が彼女を幸福にするのだ、と。これだけ幸せをもらったのだから、二人で幸せにならなければ、何かが間違っている。そんな風に感じていた。
それなのに、錠本の知らないところで、すべてが進んでいた。
「私、妊娠しているみたい」
ゆりこから告げられたのは、半年後のことである。




