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一時間前。

美しいビルが並ぶオフィス街の中、まぎれるように建つ等々力ビルは、別の意味で目立っていた。周りのビルとは違って、明らかに古臭く、雨だれによる汚れも濃い。そして、そんな薄汚れた等々力ビルの三階の窓には


「如月探偵事務所」


と書かれている。明らかに、誰も相談しないであろう、胡散臭い探偵事務所だ。


その事務所の中では、スーツ姿の男がモニターに向かって、必死にキーボードを叩いている。この男は新藤晴人。


如月探偵事務所の第一助手、というポジションであるが、所長の如月葵を抜けば、彼以外にスタッフはいない。


「おはよー、新藤くん」


新藤の作業が一区切りついたタイミングで、所長の如月葵が顔を出した。既に時間は正午に迫ろうとしている。


如月は、手にしたビニール袋を引きずるようにして、事務所の奥へ進むと、自分のデスクに腰を下ろし、大きな溜め息を吐いた。


「どうしたんですか? また寝不足ですか?」と新藤が尋ねる。


「いや、さっき…どんでもないことが起こってね」


新藤は如月が手にしていたビニール袋に目をやる。どうやら、駅前のハンバーガーショップのようだが、そこでトラブルでもあったのだろうか、と想像した。如月は語る。


「さっき、駅前で高校の同級生とすれ違ったんだ。向こうは私に気付いていなかったみたいだけれど、何て言うか…彼も当時と変わっていてね。明らかに良いスーツを着てさ、道端に停まっている外国の高級車っぽいものに乗って去って行ったんだ」


「はぁ…出世したんですね」


「それだけの話じゃないんだ。彼は高校のとき、何度も私に交際を申し込んできてね。一年に二、三回はそんな話をされて、ちょっとばかり迷惑だと思っていたのだけれど…もし付き合っていたら、私は今頃、こんな貧乏探偵事務所でお金の勘定する度に、顔を青くするような人生は送っていなかったかもしれないって思うと」


今にも白目を向きそうな如月に新藤は質問する。


「如月さん、結婚とか…興味あるんですか?」


「ない。ないけれど、大金が入り込んでくるなら、少しは考えるかな」


「…そうですか」


少なくとも、貧乏探偵事務所で助手をやっている自分には、大金を用意できないだろう、と彼はひっそり肩を落とす。


「しかも、あれだけ惚れ込んでいた私とすれ違っていたのに、気付かないってどういうことだ? どこの駅前にでもあるハンバーガーショップの常連やっているような女は、目にも映らないってことか?」


「いや、その人だって、たまには食べると思いますよ、駅前にあるハンバーガーくらい」


「ああ、もしもあのとき、私が彼の申し出を受けていたら、私は何をしていたんだろう。楽できていたんだろうなぁ」


「そんな、有りもしないもしものこと、話していても仕方ないですよ」


溜め息交じりに言う新藤を、如月は睨み付ける。


「なんだよ、君だってそういう、もしもを想像することくらい、あるだろう?」


「もしも、ですか」


新藤の頭の中に、過去の景色がいくつか通り過ぎる。それは、如月の話を聞いたせいか、どれも高校時代のものだった。女の微笑み。野獣を思わせるような男の鋭い目付き。コンクリートの匂い。


反射的に、浮上した記憶を脳の奥へ押し込む。思い出すべきではないものとして。


先程まで、拗ねた子供のような表情だった如月が、新藤の動揺を見透かすように、鋭い眼光でこちらを射抜いていた。そして、予言者のように言う。


「それに、有りもしないもしもが、今この瞬間、目の前に現れることだってあるかもしれない。忘れたいはずのトラウマ。それが形となって目の前に現れたとき、君ならどうする?」


その問いかけが合図だったかのように、事務所の電話が鳴り響いた。自問の渦の中に引きずり込まれそうになった新藤だったが、電話のコール音のおかげで正気の状態に踏み止まり、受話器を取る。


「はい、如月探偵事務所です」


電話の相手は女だった。予約なしで、今から相談に行っても問題ないか、という内容だった。今週になって、一度もまともな相談を受けていない如月探偵事務所からすれば、断る理由がない。


「一時間後、お客様です。所長、探偵らしくお願いしますよ」


「はいはい」と言って如月は、椅子の上で踏ん反り返った。

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