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それから一時間後。今度は如月が現れる。
「どうだい、調子は」
「かなり良くなりましたよ。あと一週間もすれば、格闘技の世界チャンピオンとだって互角に戦えます」
如月がきたことが嬉しく、調子に乗って大きいことを言う新藤だが、なぜか彼女は表情を曇らせた。
「一週間かぁ…」
「え、なんですか? 何かあるんですか?」
明らかに落胆する如月に、新藤は不安を抱く。如月は溜め息を吐いた。
「実は昨日、なかなか大口の依頼があってね。多少、血なまぐさいこともありそうで、私一人で解決は難しそうだったから、一度保留にしてもらったんだよ。君が二、三日で動けるって言うなら、受けられたんだけどなぁ」
「二、三日ですか…?」
新藤は怪我の回復も、常人よりは早い方だとは思うが、流石にこの傷をそれだけの期間で…となると不安でしかない。
「ああ、無理しなくても良いよ。そんなに期待していなかったし」
溜め息を吐く如月。そして、追撃のような一言が。
「はぁ…ほんと、頼りないなぁ」
頼りない。ここ最近の激闘により、その一言を払い除けたつもりが…また地獄に落とされたような気分であった。そんな青ざめた新藤を見て、如月は笑う。
「嘘だよ、嘘。ゆっくり休んで、傷を癒してくれ」
「嘘って、どこまでが嘘なんですか?」
「全部嘘。依頼なんてないよ。いつだって、君のことは頼りにしているさ。気にしないでくれ」
「そ、そうですか」
からかわれただけだ、と安心して肩を落とす新藤。しかし、ほっとしたのも束の間、彼の表情が曇る。
「如月さん、あの…」
「クレア、という少女のことだろう?」
「……はい」
彼がベッドの上で数日も悩んでいたことは、如月にはお見通しだったらしい。新藤は懺悔するかのように、ここ数日頭の中を巡っていたことを話す。
「その、彼女は如月さんの命を狙っていた人物です。それなのに、僕は彼女を助けようとした。それは、自分の使命や義務を裏切る行為だった…と、冷静になってから、思うようになって。そればかりは、如月さんに謝らなければと、ここ数日、ずっと考えていました」
「そうか。君のことだから、彼女が唯一知っていた生き方を否定したことに対して、悩んでいるのかと思ったよ」
「それは…ないとは言えません。これから彼女は、人並みの暮らしを手に入れるために、苦労することは間違いありませんから。でも、人を殺めるだけの人生よりは、絶対にいいはずです。いえ、そうに決まっている」
「そうだろう。それに、私に謝ると言っても、後悔はしていないのだろう?」
「……はい。そのつもりです」
「なら、良いじゃないか」
柔らかく微笑む如月。しかし、新藤はまだ納得していないらしい。
「でも、また彼女が暗殺者として如月さんの前に現れたと思うと…」
「また君が守ってくれれば良い。それだけの話だ。それとも、自信がないのかい?」
「いえ、それに関しては…命を賭けて守るつもりです」
どこか力のこもった瞳の新藤を見て、如月は彼の肩を軽く叩いた。きっと、これなら悩むこともないだろう。そう判断したのか、如月は肩をすくめてから言った。
「さてと、私はそろそろ帰るとするか」
踵を返し、病室を出るかと思えた如月だが、思い止まったように振り返る。
「あ、そう言えば。新藤くんは、あの娘が再び暗殺者として私の前に現れることを心配していたみたいだけど、それはないと私は思うよ」
「どうして?」
首を傾げる新藤に、如月はどこか意地の悪い笑みを浮かべた。
「だって、彼女のターゲットは変わっただろう。私ではなく、君に」
「え?」
「この借りは必ず返す。彼女、そう言っていたじゃないか」
借りは返す。それは恩を返すという意味もあれば、屈辱を返すという意味もある。新藤は前者の意味で捉えていたが、如月は後者と捉えたらしい。
「あれって…そういう意味だったんですか?」
「どれだけ前向きに捉えていたんだ、君は」
呆れて溜め息を吐く如月だが、どこか含みのある笑みを見せた。
「まぁ、きっと彼女に君を殺すなんてことは、できないだろうがね」
如月はからかったつもりだったが、新藤はあくまで真剣に頷く。
「僕もそう思います。彼女は、もう人を殺したりしない」
それを見た如月は、暫く呆然と彼の表情を眺めていたが、小さく吹き出した後、今度こそ踵を返した。
「そうだな。ま、とにかくゆっくり休んでくれ。あ、寝ている間にナイフで頸動脈を裂かれないよう、注意はしておいてくれよ」
「注意する必要なんて、ありませんよ」
一人になり、新藤はベッドに身を埋めた。きっと、人は変われるはずだ。あの少女も、きっと人並みの幸せを掴むよう、前を向く日がやってくる。そんな彼女に負けないよう、自分もいつだって如月に頼られる男にならなくては。まずは傷を癒すことだ。新藤は残り少ない入院生活を満喫することにした。
退院の日の朝、新藤はゆっくりと目を覚ました。
ふと傍らにあるナイトテーブルに目をやると、眠る前には見かけなかった何かがあった。新藤はそれを手に取り、まじまじと見つめる。そのナイフは、まるで捨て置かれた過去のようだった。いや、意志の表れようでもあるし、メッセージのようにも見える。たった一本のナイフでしかないが、確かに彼女の決意を受け取ったような気がした。もしかしたら、借りを返してもらえる日もあるのかもしれない。新藤はそんなことを考えながら、退院の準備を始めることにした。
7話に続く。




