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「ど、どうして」
少女は意識を失ってはいないが、当然のように起こしてきた奇跡が、消えてしまったことに混乱しているようだった。新藤は決して失敗が許されないプレッシャーから解放され、小さく息を吐いてから、少女に失敗の原因を告げた。
「能力に頼り切りで、気配や殺意を消す訓練を怠ったからです」
「気配や殺意を…消す?」
少女には、まだ理解できないらしい。少女がいつ異能を獲得したのかは分からないが、彼女にとって気配や殺意は、相手に伝わらないことが当然のものであった。それを今更、消す訓練などと言われたところで、分かるはずがない。
「やれやれ、今回は散々だったが…終わったみたいだな」
新藤の手を借りて、如月が立ち上がる。
「誰に依頼されたのか分からないが、私について調査が足りなかったようだな。いや、そもそも君は、異能力者という存在すら理解していなかったのか?」
如月の言葉に、少女はただ鋭い視線を返した。だが、ダメージが残っているせいか、どこかぼんやりとしている。
「何のことだ…教えろ」
少女は立ち上がろうとするが、その足は体を支えるほどの力は入らないようだ。そんな彼女に、新藤は静かに言った。
「どうでも良いことです。貴方にはもう関係がないことだ」
「関係がない?」
「そうです。貴方はこれから普通に暮らす。暗殺者ではなく、人として生きる。それが貴方の先生が望むことでもあります」
「どうしてそれを…」
「先程、あの人に頼まれました。貴方の幸せを願っていた。僕も貴方が普通の生活を送れるよう、手を貸します。だから、もう終わりにしましょう」
新藤は手を差し出す。それは、彼女が落ちた世界から、人がいきるべき場所に引き上げるものだ。この手を取ってくれれば、少女は暗い世界から救うことができるはず。それでも、少女は葛藤しているのか、ナイフを強く握りしめた。新藤は知らないことだが、彼女は元から両親の仇を討てば、殺しの道から離れるつもりだった。だから、タイミングとしては、この瞬間だが…彼女は師の仇を討つという、新しい目的ができてしまった。
「君の先生は」
言葉を挟んだのは、如月だった。
「いや、君の父と言えるだろう人は、単純に君の幸せを願っていた。復讐に囚われ、殺しの世界にとどまることは、望んでいないんだ。もし、君が父の遺志に報いるのならば、その握りしめたナイフを、この場で捨て、新藤くんの手を取ることだ」
父の遺志に報いる。少女はその言葉に、躊躇いを見せた。それを見て、新藤は改めて理解する。彼女はやはり降りたがっている、と。ただ、幼い頃から吸い続けた死の空気と復讐という意志。これを失ったとき、どうやって生きて行くのか。彼女にとって、想像もできないことなのだ。
「大丈夫。違う生き方もあるんだ。僕はそれを君に見せる。約束しよう」
新藤が差し伸べた手を見て、少女は青ざめる。それは、ナイフの切っ先を向けられたような、明確な恐怖を抱いていた。それでも、少女はその手を取ろうとした。
だが、自由へと踏み出そうとする彼女の足を掴んで離さない気配を、新藤は感じた。少女の後方。月明かりに照らされた、少年の姿が。
「危ない!」
新藤は、咄嗟に少女を突き飛ばす。驚愕の表情を浮かべる少女。その後ろで歪んだ笑みを浮かべる少年。そして、闇夜に響く轟音。それが突き抜けたように、新藤の左腕に痛みが走った。衝撃に後退し、思わず膝を付く。
少女は振り返り、事態を把握したようだった。そこに立っていたのは、二代目の少年である。少女は反射的にナイフを振り上げた。死をもたらそうとする相手には、それよりも早く死を与えること。それが、彼女に染み付いた行動だ。そして、この距離であれば彼女にとって、確実にそれを実行できるだろう。だが、新藤はそれを許さなかった。
「クレア、殺すな!」
少女…クレアの手から、銀色の煌めきが放たれる。それは、瞬時に少年の喉元に到達するかと思われたが…。
少年の叫びが月に轟く。銀の煌めきに撫でられた腕を抑え、彼は腹の底から悲鳴を上げていた。それは、まるで自分の痛みを世界中に主張するかのようだ。そして、彼は駆け出す。どこと言うわけでなく、ただ必死に痛みから逃げ出そうとしていた。そして、その背を追う者は、誰一人としていない。
森の中に、本来の静寂が訪れた。クレアはもちろん、新藤も如月も、一言も発することない。暫くそんな時間が続いたが、最初にそれを破ったのは、クレアだ。彼女はゆっくりと歩みを進めたかと思うと、師であり、父である老人の前で屈んだ。そして、その亡骸の肩を担ぐと、新藤と如月の前から消えようとした。
闇へ消える直前、彼女は振り返って、新藤に言った。
「新藤晴人、この借りは必ず返す」
そして、彼女は新藤たちの前から完全に消えてしまった。
新藤は何とか立ち上がり、彼女の背を見送ると、如月の横に立った。
「帰りますか」
「止めなくて…良かったのか?」
如月の問いかけに、新藤は僅かな吐息のように笑った。
「僕がどうこう言わなくても、きっと彼女は何とかやっていけると思います。もちろん、助けを必要としているのなら…」
突然、新藤の声が途切れたかと思うと、彼はまた膝を付いてしまった。銃弾を肩に受け、何とか痛みに耐えていたが、血が足りなくなってしまったらしい。
「おいおい。けっこう血が出ているからと言って、ここで倒れるなよ。私は君を担いで歩くなんて、できないからな」
まるで他人事のように指摘する如月に、新藤は苦笑いを浮かべる。
「あの、如月さん…。僕、今回はけっこう頑張ったと思うんですが…」
新藤の呟くような主張に、如月は暫く呆然と立ち尽くし、何も言わなかった。だが、新藤の言葉がゆっくり時間をかけて脳に到達したのか、十分な間の後、彼女は笑顔を見せた。
「そうだった」
そう言って、彼女は新藤の前で膝を付く。そして、その手で新藤の頬に触れた。
「守ってくれて、ありがとう。君は頼りになる男だよ、新藤くん」




