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十年前のクリスマスの夜、この男が私たち家族を殺した。あのときは理解していなかったが、私の家はとても裕福だった。きっと父は、他人に恨まれるような手段で、富を得ていなのかもしれない。それは今となっては、どうでも良い。
とにかく、ある日…この男が我が家に現れ、父を殺し、母を殺し、弟を殺した。私は…クローゼットの隙間から、それを見て震えていた。私たちは、平凡なクリスマスの夜を楽しんでいただけなのに、どうしてこんなことになってしまったのか。そう考えていると、震えは止まり、今度は怒りがこみ上げてきた。許せない。なぜ、何の力もない少女に、そのような感情を抱くことができたのか、分からない。もしかしたら、恐怖を乗り越えて、狂っていたのかもしれない。
やつは私の存在に気付いていなかった。私は昔からかくれんぼが得意だった。だから、このときもやつに見つからなかったのだと思う。それを利用して、私はキッチンまで移動した。そして、ナイフを手に取り、背後からやつの背中を刺したのだ。でも、ナイフはやつの背の皮を少し抉った程度で、痛みを与えることすらできなかった。やつは振り返り、私を暫く眺めてから言った。
「私に気配を悟らせないとは…面白い。その才に免じて、見逃してやろう」
やつにとって、ただの気まぐれだったに違いない。本当なら、そこで泣き出して、ただ蹲れば良かった。そうすれば、やつは立ち去り、二度と会うことはなかったはず。それなのに、私はナイフを離さず、家を出て行こうとするやつに、再び襲い掛かった。
もちろん、切っ先がやつに触れることはない。それでも、立ち去ろうとするやつを追い、何度も何度も、ナイフを突き出した。最終的に、やつは呆れるように溜め息を吐き、ナイフを奪うと私を担ぎ上げた。きっと、気まぐれが続いたのだと思う。やつは私を隠れ家まで運び、何日か放置し、何日か経つと食事を与えるようになった。
やつに生かされながらも、いつかどこかのタイミングで必ず殺す、と私は考えていた。ただ、今の自分にはそれを達成させるだけの力がない。成長しよう。もう少し大きくなれば、ナイフでやつの腹を刺すくらい、できるはずだ。そう考えていたが、実際は十年経っても、そんなタイミングはやってこなかった。むしろ、成長すればするほど、この男を殺すなんて不可能なことだ、と理解していった。
いつしか、私はやつのことを「先生」と呼ぶようになっていた。たった一人の男を殺すための技術を身に付けようとする私にとって、どんな人物でも無手で殺す先生は、尊敬すべき人だったからだ。先生の技を目にすればするほど、先生を尊敬するようになっていた。先生の生き方、先生の考えを知れば知るほど、先生に憧れていった。無駄のない、一振りの剣のように、先生の存在は美しかったのだ。だが、他の誰でもなく、私が先生を殺さなければならない。私が殺さなければ、私の家族が、あのときクローゼットの中で震えていた少女が、報われないではないか。だから…。
「だから、私が先生を殺すはずだったんだ! それなのに、どうしてあんな男に…」
私は拳を地に叩きつける。一度でなく、何度も。いつか、私の技が先生を超え、私が教えるはずだった。圧倒的な暴力によって、一方的に命を奪われる恐怖を。それなのに…先生の目は閉じたまま開くことはない。もう私が彼を殺すことはできない。彼と一緒に仕事することもない。彼に技を教わることもない。必死に鍛錬する私を見守ってくれることもない。私のために、不器用な手つきで不味い料理を振る舞うこともない。寒い冬の夜、体を縮こまらせて眠る私に、毛布を掛けることも。疲れ果てて歩けない私を背負ってくれることも。
「先生、どうして…」
拳をもう一度叩き付けて、どうしてこうなったのか、どうすれば私が報われるのか、少しだけ考えた。
あいつだ。新藤晴人。あいつが私たちの前に立ちはだかったために、すべてがおかしくなった。あいつを殺すこと。それが…私と私の家族、そして先生の命に報いる行為なのではないか。
私は先生の前で両手を合わせ、目を閉じた。どうか見ていてください。貴方が私に残したもの。そのすべてをお見せします、と。
喧騒が少しずつ近付いていた。あのマフィア連中が、私を探している。先生の眠りを妨げるわけにはいかない。これ以上、やつらを近づけるわけにはいかなかった。私は立ち上がり、やつらの方を見た。そう言えば、先生が命を落とした、直接の原因はこのマフィア連中にあった。まずはこいつらを皆殺しにしてやろう。新藤晴人が現れるまでの、ウォーミングアップというやつだ。私は一度だけ振り返り、先生を見る。
「先生、少しだけここでお待ちください。戻ったら、一緒に私の故郷に行きましょう。先生の故郷がどこにあるのか、私は知らない。だから、せめて…いつか私が眠るであろう、私の故郷の地で、眠って欲しい。娘が言う、それぐらいのわがまま、聞いてくれても、良いでしょう」
私はそんなことを言う自分が少しだけおかしく、思わず笑みを零した。そして、今度こそマフィア連中がいる方へ視線を向ける。目を閉じ、大きく息を吸い込んで、肺の中を死の空気で満たす。これを吐き出したら、この辺りは死の気配で満ちることだろう。なぜなら、私が命を土に還していくからだ。一人ずつ。誰一人残さず。
私は息を吐き出し、目を開いた。そして、能力を発動させた。私は空気と一体化する。後は先生から受け継いだ技を振るうだけだった。




