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「もう良い。降ろせ」


屋敷から少し離れた場所にある森に逃げ込み、一歩でも遠くへと駆ける私の背で、先生は言った。


「少しだけ、休みます」


確かに、疲労が蓄積されている。これから、どれだけ歩くのか分からないが、休みながらでなければ、私の体がもたない。私は先生が木に背中を預けられるよう、ゆっくりと降ろした。だが、先生の体はそんな動作すら負担だったらしく、口から血を吹き出すのだった。


「先生!」と私は思わず声を上げる。


先生は手の甲で口元を拭うと、その血を見て口の端を吊り上げた。


「ここまでのようだ。今まで命のやり取りでは無敗のつもりだったが…最後の最後で、負けたか」


その顔に後悔や未練はないように見えた。満足だ、とでも言うのか。そんなわけがない。勝手に、自分の終わりを決めないでくれ。


「先生は負けてはいません。最後のタイミング、咳が込み上げたせいで、少し遅れてしまったのでしょう。あれがなければ、絶対に先生の方が先に…」


決着のとき、先生が微かに顔を歪めた瞬間を私は見逃してはいなかった。仕事中は超人的な精神力で抑え込んでいたが、あの瞬間、咳が出てきてしまったのだ。そうでなければ、先生が負けるわけがない。


それなのに、先生は「それすら、実力の内だ」と笑う。


その言葉に、私は返す言葉が見つからない。沈黙が流れる。私は服の裾を破き、止血だけでもと、先生の傷口にあてがったが、思ったより、傷は深い。出血も大量だ。でも、死なせるわけにはいかない。絶対に、ここを脱して、治療して…先生には生きてもらわなくてはならない。


しかし、男たちの怒鳴るような声が近付いていた。どうやら、あのマフィア連中が追ってきたようだ。私を目当てに。休んではいられない。そろそろ、移動を再開しなければならないが…先生を背負って、やつらに追いつかれることなく、どこまで行けるだろうか。マフィア連中は、決して遠く離れた位置にいるわけではない、ということは、その気配から明白なことだった。


「私のことは、捨て置け」


私の心の内にある不安を指摘するように、先生は言った。私は首を横に振る。


「いえ、大丈夫です。やつらをすぐに始末して、戻ってきますから」


「……あの男もくるに違いない。逃げた方が良い」


先生が言うのは、あの探偵助手…新藤晴人のことだろう。


「正面からでなければ、私にも勝機があります。幸いこのような場所こそ、私にとって有利です。だから、すぐにやつらを始末して…」


「どっちにしろ…私のことは捨て置け。もう間に合わない」


先生が腰を下ろした辺りで、赤い血が広がった。私が抑えている箇所の他にも、大きな傷があるらしい。彼は死ぬ。時間はもう殆どない。それを認めたくはなかった。


「先生、死なれては困ります。気を確かに持ってください」


「お前を拾ってから、十年近い年月が経ったな」


そう言って微笑む先生は、自らの人生を…いや、私と過ごした日々を振り返ろうとしていた。まるで、最後だからこそ、私たちの関係を整理するかのように。


「目の前にいる人間を殺すだけの人生だったが、お前と過ごした日々は違った」


それは、今までにないほど、穏やかな表情であった。


「先生、そんな話はやめてください。今はただ生きることを考えて」


「ずっとお前に伝えたかった。そして、その機会はこれが最後。どうか聞いてくれ」


「駄目です、先生…」


しかし、私は止められなかった。この老人は死を迎えようとしている。その事実をどうしたって否定できない。さらに、死に行く人の最後の願い。それは妨げるべきことではなかった。


「たった十年のことだったが、私のような人間に、人らしい幸せを与えてくれたのは、お前だ。礼を言う」


先生が少しだけ微笑んだ気がした。父親、というものは、こういう顔をするのかもしれない。もう忘れてしまったことだが。さらに、先生は続けた。


「それから、すまなかった。お前を殺しの世界に引き込んだこと、何も与えられなかったこと。そうだ、お前を死地に置いて助けに遅れたこともあった」


先生は声を出して笑うが、同時に血を吐き出す。


「そして、何よりも謝るべきことは、お前から…奪ってしまった…」


声は少しずつ擦れ、小さくなる。先生の唇は確かに動き、何かを伝えようとしているが、声にならないようだった。だが、私は先生が何を言おうとしているのか、理解していた。先生が私から奪ったもの。それは、私は嫌なほど理解しているのだから。


最後の気力を振り絞ったのか、先生がはっきりとした声で言った。


「本当に申し訳ないと思う。そして、私の傍にいてくれて、ありがとう。できることなら、クレア…人を殺すな」


先生が私の名を口にした。そして、最後の言葉を。


「これからは、普通の幸せを、人並みの人生を…歩んでくれ」


「先生、何を…」


先生は脱力したように肩を落とすと、項垂れ、動かなくなってしまった。


「何を言っているのですが」


私は言い掛けたことを口にする。先生の死に顔を見て、十年間、ただ秘めていた感情が、想いが溢れ出てきた。


「何が申し訳ないだ。何がありがとうだ。殺すな? 普通の幸せ、人並みの人生だと? そんな言葉は…聞きたくなかった。お前が私を引き込んだのだろう、暴力の世界に!」


これは、蓄積し続けた、怒りと憎しみだ。いつか、この怒りと憎しみを、行動に移すまで秘めておくと決意したもの。しかし、実行する機会は失われ、ただ言葉にすることしか、できない。


「お前の最期は…ただ、私に殴打され、切り裂かれ、踏み潰され…命乞いをするべきだったんだ。それだけでお前を許す気はない。お前がどんな言葉を用いて、命を長らえようと媚びても、私に殺されるんだ。そして、絶望の顔を見せるべきだった。何が、ありがとうだ。私は、家族ごっこをするつもりで、お前の傍にいたんじゃない。ママとパパ、弟の仇を取るために、殺しの技を盗んでいただけだ!」





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