18
老人が屋敷を訪れる一時間ほど前のこと。
「駄目だ。付かず離れずの距離で戦っても、あのジジイは絶対にその距離を崩してくる。こっちが焦って、距離を詰めるか、離れるか、そう動くように誘導されちまうんだ」
乱条は苛立ちを抑えつけるように腕を組んだ。
「やっぱり、ジジイが飛び込んできたとき、カウンターを合わせるしかねぇ。自分が得意な技ほど、やり返されたとき、とんでもないダメージを負うもんだ」
「それは分かりますけど、あの速いスピードに合わせられますか? 乱条さんだって、それができなかったから、倒せなかったんでしょう?」
新藤の反論に、乱条は僅かに頬を引き攣らせた。
「いいや、もう何回かパンチを見れば、合わせていた。…たぶん」
「そのもう何回か、を見ているうちに、ガツンとやられてしまうわけですよ」
「でも、勝機はその一点だろうが。もしくは、あの近距離からくる一撃をだな…」
乱条は何を言い掛けて止まると、数秒の間、動かなくなってしまった。
「乱条さん?」
新藤の呼びかけにも返事がない。
「おーい。おーい、乱条さーん」
しつこく声をかける新藤。だが、氷が溶ける、乱条の表情が少しずつ変化したかと思うと、最終的にそれは自信に満ちた笑みに変わった。
「おい、新藤。やっぱり、あのジジイを倒すには、カウンター一択だ」
「なんですか、名案が浮かんだのかと思えば、またそれですか?」
「違う。よく考えてみろ。あのジジイが使う至近距離からの一撃。あれがどうして厄介なのか、考えてみろ」
「それは…普通、威力のあるパンチっていうのは、ある程度の距離が必用なのに、あの技は有り得ないくらい近い距離から有り得ない威力を出すってことですよ」
「そうだ。たぶん、あれは地面を蹴る力と体のうねり、拳を突き出す力をすべて連動させて、短いストロークでも高い威力を出す技だ。一年や二年…十年練習したってものにはできない。要は誰にも真似できない距離から攻撃ができるわけだ。至近距離でやり合うことに関して、ジジイは圧倒的な自信を持っている。そうだろ?」
「そうですよ。だから、何だって言うんですか?」
「馬鹿かお前は。お前なぁ、自分の異能力が何なのか、忘れちまったのか?」
「忘れるわけないでしょう。自分の力なんだから…」と新藤は言い掛けて、何かに思い当たる。
乱条は得意げに鼻を鳴らすと、新藤に言った。
「あのジジイにとって、唯一の天敵はお前みたいだな、新藤」
少女は階段の上から、老人と探偵助手による拳のやり取りを見ていた。優勢なのは明らかに老人であった。老人が必殺の一撃のために、腰を落とす。探偵助手はあの技から、どのように逃げるのか、と様子を見てみると、彼は正面から迎え撃つと言わんばかりに、老人と同じ姿勢を取った。あれはカウンターを狙っている。少女にも格闘戦の心得があるため、それが分かった。だが、同時に有り得ないことだということも、分かっていた。
老人の技は一度の踏み込みで間合いを消失させ、超至近距離から強烈な一撃を放つ。その直撃を受ければ、体中に砕けるような痛みにが走り、死に至る。何度も真似てみたが、あの技は誰にも再現できない、まさに奥義だ。全力で回避しなければ、死に至ることもある。それなのに…あの探偵助手は正面から迎え撃つつもりだ。ホテルでは奇跡的に生きながらえたが、今度はそうはいかない。
老人が地を蹴った。探偵助手は、どうするつもりだ。避けるように警告すべきか。いや、今からでは間に合わない。あいつは、死んでしまう。少女は思わず目を閉じた。
人の肉が強い強く打たれた音が響いた。そして、床の上をのたうち回るように転がる音。決着が付いたのだ。少女はゆっくりと目を開ける。絶命の瞬間を迎える、探偵助手の姿を覚悟して。
しかし、彼女が見たものは、血反吐を吐いて倒れる探偵助手の姿ではなかった。彼は立っていた。何が起こったのか、少女には理解できない。理解できないが、彼が生きて、立っていることは確かである。少女は、彼の視線の先を見た。そこには、やはり理解できない光景が。それは、倒れた老人の姿であった。




