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ゆっくりと、私の意識は現実に浮上した。同時に、自分がどんな状況に置かれているのか、理解する。椅子に座らせられ、手首を後ろで縛られているらしい。そうだ…私は如月葵の助手らしき男に負けて、捕らえられてしまったのだ。この状況、十三歳の誕生日を思い出す。本当に最悪だった…。
その日、私は初めて先生に、自分の誕生日について話した。すると先生は笑って、信じられないようなことを言ったのである。
「そうか。ならば、誕生日祝いとして、私の仕事に付いて来てみるか?」
もちろん、この頃から先生の仕事が殺しであることは理解していた。そんな危険な場所に付いて行くものではない。まともな子供なら、それくらいの判断はできるはずだ。でも、私は既に壊れていたのだと思う。珍しく笑顔を見せる先生が、私の誕生日を祝っている気がして、頷いたのだ。
目標がどんな人物だったのか、それは覚えていない。いや、知らされていなかった。確か、場所は高級ホテルだった。血だまりの上を恐る恐る歩き、先生に置いて行かれないよう、ただ必死だった。
途中、銃声を聞いて、私は隠れた。隠れている間も、何度も銃声を聞いた。来るんじゃなかった。そんな後悔を抱きながら、耳を塞ぎ、ただ時間が過ぎることを待つ。どれくらいの時間が経ったのか、ということは、もちろん覚えてはいない。今考えると、先生にしては時間がかかったのではないか。気付いたら辺りは静まり返っていた。
生きているものは、誰もいない。死屍累々というべき光景に、私は一人だった。先生もいない。帰ってしまった? いや、先生は私を探しているはず。待てば、きっと迎えに来てくれる。そう信じて、物影に隠れたが、いつまで経っても先生は現れなかった。それでも、私は暗闇の中、数えきれない死体の中で、先生を待ち続けた。
生き物の気配がしたのは、どれくらいの時間が経過してからだろうか。やっと先生が来てくれた。そう思って飛び出そうとした私だったが、耳に入ってきたのは、知らない大人たちの怒号だった。
「誰がこんなことを!」
「必ず見つけて殺せ!」
「いや、生きたまま連れて来い。死ぬより酷い目に合わせてやる!」
私は震えた。大人たちが部屋中を探しても、私が見つからなかったのは、自分でも気付いていなかった能力のおかげだ。私は、死ぬ思いでその場から脱出し、何とか先生のもとに帰った。あれは、奇跡以外の何ものでもなかっただろう。泥と血で汚れた私の顔を見て、先生は声をあげて笑った。あの人が、あれだけ笑ったのは、たぶん後にも先にもない。そして、地獄から奇跡の生還を果たした私に、先生は言った。
「すまん、つい忘れてしまった」
先生が人の命を尊ぶことはない。そんなことは分かっていたけれど、もう何年も育てている私のことを、あれだけ危険な場所に放って、忘れてしまうなんて、やはりこの人はおかしい。私はそんな再認識と共に、きっとこの人は私が命の危機に陥っても、助けに来ることはない、と確信した。
「技を教えて欲しい?」
次の日、私は自分の身は自分で守らなければならない、と決意し、先生に戦う術を教えて欲しいと申し出た。それを聞いて、先生は暫く黙り込んだが、結局は了承し、その日から地獄の特訓が始まった。
先生のもとで暮らす前は、虫一匹も殺したことない私だったが、意外にも才能のようなものがあったらしく、教えてもらったことは次々に吸収した。先生はそれを誉めることは、決してなかったが、あの人なりに驚いていたはずだ。
本格的に先生の仕事を手伝い始めたのは、十六になってから。最初は銃を使って人を殺し、次はナイフ、次は素手で…と少しずつ慣れて行った。それでも未熟であることは、先生を見れば一目瞭然。私は決して奢ることはなく、飽くまで先生のサポートに徹し、仕事を続けるのだった。
そう言えば…先生が助けてくれなかった話は、これだけではなかった。忘れもしない。初めて日本で仕事をしたときのことだ。ジャパニーズマフィアのボスが目標で、その自宅に忍び込んだときのことだ。
その屋敷は、大したセキュリティもなく、見張りも少なかったので、仕事はスムーズに進んだ。先生が最後の一撃を与えたとき、マフィアのボスが吐血して、先生の服に付着した。多くの仕事で返り血すら浴びることのない先生にとって、それは珍しいことだった。
「伝説のホン・ウーヤーもそろそろ引退ですね」
それが先生の衰えの兆候だと思ってもいなかった、当時の私は、ちょっとした皮肉を言いながら、ハンカチを手渡した。先生はそれを受け取って血を拭うと、小さく息を吐き、特に言い訳することもなかった。
簡単な仕事を終え、その場を去ろうとしたが、私は妙な違和感があり、改めて和室の部屋を見回した。マフィアのボスが倒れる、その奥に、襖で仕切られた和風のクローゼットがあり、それが妙に気になったのだ。
「先生、あの中…」
先生も和風クローゼットを一瞥したが、特に興味はなかったらしく、部屋を出て行こうとした。
「生き残りがいるのなら、お前が処分しておけ。私は先に帰る」
そう言い残して、先生は本当に帰ってしまった。
私は違和感をそのままにしておくのも気持ちが悪かったので、襖を開いて中を確認した。すると、押し殺した悲鳴が。私より少し年下だと思われる男の子が身を縮めて、そこに隠れていた。
「ボスの息子か?」
私は覚えたばかりの日本語で、男の子に質問したが、彼は言葉を発しようにも、嗚咽ばかりでまともに返事ができないようだった。私はナイフを取り出し、それを男の子に突き立てるため、身を屈めた。早々に片付けるつもりだったのだが…そんなときに限って、嫌な記憶が呼び起こされた。
十三歳の誕生日。そうだ、この男の子はあのときの私と、同じくらいの年齢だろう。きっと、彼もあのときの私と同じ気持ちに違いない。地獄に一人きり。心の中では必死に助けを求めているのに、誰も手を差し伸べることはない。
私は数秒、握ったナイフの感触を確かめながら、自分の感情を整理した。私は伝説の暗殺者である、ホン・ウーヤーの弟子だ。やるべきことは、理解しているはず。それなのに…。私はナイフを懐に戻し、立ち上がった。男の子は涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら、茫然と私を見上げる。彼なりに、死を覚悟したはずが、相手にその気がないことを悟ったらしい。
「生きるためには、強くなるしかない」
どういうつもりなのか、私は男の子に、そんな言葉を残して去った。後々になって考えると、きっと十三歳の自分に向けた自分のメッセージであり、そのときの私を鼓舞するための言葉だったのだと思う。そんな感傷に浸りながらも、何事もなく私は拠点としていたアジトに戻り、その日を終えた。




