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如月を守ることに必死だった新藤だが、襲撃者は伝説の暗殺者である、という話を思い出す。しかし、目の前にいる少女が、それとは思えなかった。金髪碧眼の女性ということも驚きだが、何よりも若い。新藤は西洋系の女性と知り合う機会はなかったので、年齢に対してどのような見た目が妥当なのか、という点については分からない。しかし、少女は下手をすれば十代にも見える。だとしたら、伝説の暗殺者の助手か?
「新藤、やったか?」
背後から乱条の声があり、少女の視線が一瞬だけ入り口の方へ向けられた。
「なんだ、こいつがホン・ウーヤーって…ってわけねぇよなぁ」
ホン・ウーヤー、という言葉に、少女の顔色が僅かに変わった。少なくとも、伝説の関係者であることは間違いないらしい。乱条が登場したためか、少女は不利と判断したらしく、踵を返した。
「乱条さん、あの子を捕らえます。ここはお願いします!」
新藤は、乱条の返事を待つことなく走り出した。少女は既に窓から外へ出て、中庭を駆けている。逃げる少女が囮という恐れもあるが、乱条が傍にいれば問題はないはず。だとしたら、少女を捕らえて、少しでもホン・ウーヤーの情報を得たいところだ。
流石に、少女は身軽だった。塀を乗り越え、料亭の敷地から出て行った。新藤も負けじと塀に飛びつき、よじ登って、少女の背中を確認する。
「逃がさない…!」
新藤は一人呟き、塀から飛び降りると、少女の背を追って走る。頼りになるところを見せねばならない、と思うと未だかつてないスピードが出た。少女との距離は徐々につまり、手を伸ばせば服の裾でも掴めそうなほどだ。
その瞬間、少女が振り返ると同時に拳を振り回した。不意の一撃に、新藤は対応が遅れるが、それでも顔面で受けるようなことはない。
さらに、少女は懐に手を入れ、何かを取り出だそうとする。武器だ、と新藤は素早く距離を取ったが、銃だとしたらタイミング的に最悪だ。
しかし、少女が取り出したのはナイフだ。銃でなかったことは幸いだが、ナイフでも分が悪いのは間違いない。少女はナイフを振りかぶる。この至近距離で投げられたら、躱せるかどうかは五分。新藤は腰を落として、その瞬間に備えた。
「なんだ、喧嘩か?」
「えー、昼間から喧嘩かよ」
そのとき、新藤の背後で声があった。恐らくは少年と言えるような年頃。二名以上だ。もし、このタイミングでナイフを投げ付けられ、新藤が躱してしまったら…。それでも新藤は動揺を顔に出さず、少女の動きを見張っていた。新藤は少女の躊躇いを見逃さない。彼女は確かに、無駄な犠牲が出ることを怖れていた。
だとしたら…と、新藤は前に出て、鞭を振り回すような蹴りを放つ。そして、それは少女の手にあるナイフを打ち払った。少女は素早く後方に飛び、地面に転がったナイフを一瞥した後、新藤の背後に意識を向けていた。それは少年たちが立ち去ったことを確認したのか、それとも新藤以外の追手が現れることを確認したのか。とにかく、少女は決心したように拳を構えた。
新藤も構えつつ気持ちを入れ替え、少女の動きに集中する。じっくりと追い詰めて確実に捕らえようという新藤に対し、少女は短期決戦を望んでいるらしく、間合いを詰めてきた。追っ手を意識しているようだ。だとしたら、新藤からしてみると圧倒的に有利な状況だ。精神的な余裕は時として大きなアドバンテージを生み出す。
少女の素早い拳が二度、三度飛んできた。新藤は、軽く身を引いて、それが届かない距離を保つ。少女は左右に揺れてから、蹴りの動作を見せたかと思うと、飛び込むように一歩前に出て、右の拳を真っ直ぐ突き出した。新藤は、頭を低くしつつ体を左側に逸らして、それを躱すと、反撃の拳を少女の腹部に目がけて放つ。だが、彼女は素早く身を捌き、新藤の横側に移動していた。
そして、またも顔面を狙った拳の一撃。新藤は首を曲げて、何とかそれをやり過ごし、さらに少女の手首を掴んだ。捻り上げるつもりだったが、少女は空いている方の手で拳を作ると、掴む新藤の腕に叩きつける。これを何度も受けては、骨が痛むだろう。新藤はあっさりと手を離し、同時に反対の拳を振り回し、少女のこめかみを狙った。少女はそれを反応し、身を屈めたが、新藤はさらに追撃の膝を突き出している。突き上げられた膝を何とか両腕で防いだ少女だが、その威力にバランスを崩して、後ろに倒れ込みそうになった。
だが、何とか手を地面に付き、それを軸として体を持ち上げ、その状態から新藤に蹴りを放った。アクロバットな攻撃だが、新藤は 何事もなくそれを躱し、少女の体を支える腕を足で払う。少女は倒れ込むが、新藤から距離を取るように地を転がり、素早く立ち上がった。
少女の動きは速い。だが、総合力では新藤の敵ではなかった。どんな局面、どんな展開になろうと、新藤が上回ることは、間違いない。それは、少女も理解しているはずだ。
少女は仕切り直すように、構え直すと、どっしりと腰を落とす。これだけ追い詰められているはずなのに、彼女はまだ勝機があると判断している。この状況を覆す大技を持っているのか。実際、彼女には時間がない。そろそろ逃亡しなければ、成瀬か乱条が駆け付けることもあるだろう。だからこそ、隠していた一撃必殺を披露するつもりだと考えられた。
何が繰り出すのか。新藤もそれを対処するため、腰を落として、少女の動きを見定めた。少女は少しずつ間合いを詰める。じわじわと距離を詰め、今までの射程距離より、さらに近い場所で止まった。緊張感が高まり、すべての音が消失するような感覚があった。それが数秒続いた後、少女が動く。
素早い踏み込みで、新藤の懐に飛び込む。それは、今までにないほどの至近距離だ。そこから、彼女は拳を突き出した。だが、それはあまりにも近い。拳も蹴りも、威力を出すには、ある程度の距離が必用だ。拳も蹴りも、腕が伸び切った状態が一番威力が高い。しかし、少女の拳は無に等しい距離から突き出された。それは、殆ど新藤の腹部に拳を置いた、という程度である。新藤は戸惑う。突き放すべきか。それとも掴んで倒してしまうべきか。
だが、新藤の判断は遅かった。次の瞬間、新藤の腹部に激痛が走る。そして、猛烈な突風に押し出されたような衝撃があり、新藤は何歩か後退した。さらに、腹部に受けたはずの痛みが全身へ広がり、新藤は思わず膝を付いた。これでは、逃げられてしまうと、痛みに耐えながら、顔を上げると、そこには愕然とした少女の顔があった。
「浅かった…」
浅かった? まさか、今の一撃が?
だが、新藤にはそれを考える時間はない。彼女が戸惑っている間が、最後のチャンスだ。全身に響くような痛みを押し退け、新藤は動いた。何かに驚愕している彼女に向かって、飛びつくようなタックル。少女は不意を突かれたのか、呆気なく倒れた。抵抗する少女だが、新藤は素早く後ろを取り、彼女の首に腕を回す。抵抗は次第に弱まって行った。




