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「う、動くな!」
スーツ姿の男は、窓辺に立つ先生に向かって叫んだ。神経質で怒りっぽい声質。それに対し、先生は銃口が向けられているにも関わらず、落ち着いた表情だ。先生は銃くらいでは驚かない。長年一緒にいる私だって、先生が驚いたところを見たことがないほどだ。
「近寄るな!」
叫び声が人気のない豪邸に響く。スーツ姿の男からすると、セキュリティは完璧だと思って、帰宅したはずが、ガードマンたちの姿が消え、見知らぬ老人が立っていたのだから、取り乱すのも仕方がない。
しかも、心当たりもあるはず。人並み以上に金を稼げば、それだけ多くの人に恨まれる。妬まれる。きっと、中庭にプールが付いた豪邸に住むまで、どれだけの人間を裏切って、蹴落としてきたのか。これが当然の報いというべきかどうか、私は知らない。興味もない。これは、ただの仕事だから。
「動くと撃つからな! 近付くなよ!」
スーツ姿の男は、同じ言葉を繰り返しつつ、震える手を必死に抑え、狙いを定めようとする。先程から一歩も動いていない先生は、落ち着き払った声で言った。
「落ち着け。安全装置は外したか? そもそも弾は入っているのか?」
「馬鹿にするな。扱い方くらい、分かっているんだよ」
「そうか」
先生は深く溜め息を吐くと、次の瞬間、先生が床を蹴った。それに反応し、スーツ姿の男は引き金を引き、銃声が轟いたが…。圧倒的に有利な武器を持っていながら、スーツ姿の男は倒れた。拳による一撃。それだけで、彼は心臓が潰れていた。先生は、崩れ落ちた男を数秒見下ろし、表情を変えることなく、踵を返して豪邸を後にしようと歩き出したが…。
「ちょっと待った」と何者かの声が。
室内に、大柄の男が入ってきた。服の上からでも鍛えられた肉体が窺えるところを見ると、ボディガードの一人らしい。この豪邸のボディガードは、先生によって全滅したと思っていたが、まだ残っていたようだ。
「あんた、ホン・ウーヤーだろ? 伝説の暗殺者…まだ現役だったなんて、知らなかったな」
ボディガードは恐れに顔を引きつらせているようだが、こうして姿を現したと言いうことは、好奇心が勝ったらしい。
「……出てこなければ、命を長らえた。そうは思わなかったか?」
静かに指摘する先生に、ボディガードは緊張感と共に不敵な笑みを浮かべる。
「いや、こんなチャンス滅多にない。あんたを倒せば、俺は凄腕のガードマンとして名を挙げるってものだ」
先生はそれ以上、ボディガードに対して何も語らなかった。ボディガードは、上着を脱いでファイティングポーズを取ったが、先生は特に構えることもなく、棒立ち状態だった。
ボディガードは無造作に間合いを詰めると、その太い腕を振るう。剛腕という言葉を連想させる、破壊力のこもった拳の一撃。しかし、突き出した拳に手応えはなく、ボディーガードが眉を寄せたとき、勝負は既に決まっていた。
先生は微かな動きで拳の軌道から逸れると、ボディガードの内側に入っていた。だが、その距離はあまりに近い。例え、拳を引いて突き出したとしても、十分な威力は発揮できないような距離だ。それでも、先生はボディガードの鳩尾に拳を添えた。殴ったのではない。ただ置くように、拳を添えたのだ。
だが、次の瞬間、ボディガードはダンプカーに衝突されたかのように吹き飛ぶ。殆ど、部屋の端から端の距離を飛んだボディガードは壁に打ち付けられ、その衝撃に声にならない声が出た。
「な、なんだ…今のは」
ボディガードは意識を失っていなかったらしい。私に言わせると、先生の一撃を受けたにも関わらず、喋っていられるなんて、とんでもない頑丈さだ。それなりに、腕前があったのだろう。
ボディガードは、追い打ちまでは考えていないだろう先生を睨み付け、何やら呟いている。そんなわけがない。殺してやる。俺の方が強い。たぶん、そんなところだろう。そして、痛みに震える手を懐に突っ込むと、結局は銃を取り出していた。
「これで俺が最強だ!」
このボディカードは、先程のスーツ姿の男に比べれば、躊躇いなく引き金を引くだろう。流石の先生だって、この距離で弾丸を躱すなんてことはできない。それでも、ボディガードの男の判断は遅かった。なぜなら、既に傍らに立っていた私が、男の腕にナイフを振り下ろしていたからだ。
肉を切り、骨に到達する感触。ボディガードは、突然腕を斬り付けられ、何が起こったのか瞬時に理解できなかったらしく、ただ瞳を瞬かせていた。だが、傍らでナイフを持って跪いている私を見て、何が起こったのか分かったようだった。
「い、いつから、そこに…?」
驚愕する男に、私は告げる。
「失礼ですね。最初からこの部屋にいましたよ」
私が教えてあげても、男は納得していないようだった。
「馬鹿な。だって少しも…」
困惑するボディガードに、これ以上説明するつもりはない。私はもう一度ナイフを振り落とした。断末魔はない。無駄のない一撃で仕留められたらしい。
ナイフに付着した血を拭う私を見て、先生が珍しく笑ったような気がした。
「どうして笑うのですか?」
笑われる心当たりがなかったので、私は質問する。
「上達したようだ」
なぜ、そんなことを言うのか。私は余計に困惑した。
「当然です。私も先生に付いて、何度も仕事をこなしていますから。上達していないようでは、困ります」
「だが、経験を積んだからといって決して奢るな。お前の技はまだ未熟。本当の熟練者に遭遇したとき、どれだけ劣るか」
「先生こそ、死体の数をもっと抑えられたはずです。最近、無駄な殺生が多くなったように思えます」
「この歳になって、多くの技を披露したくなってな」
「技を見せたところで、その相手は全員死ぬのですから、意味はありませんよ」
私の指摘に、先生は薄く笑った。その表情に、私は閉口する。最近、先生がこんな風に笑顔を見せることが増えた。その意味を想像として、私は歯がゆさを覚える。
「とにかく、すぐ出ましょう。セキュリティシステムが動いていたので、後五分もしないうちに、誰かしらが駆け付ます」
「そうだな」
先生は素直に私の言葉に従って、この豪邸から姿を消した。




