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向こう側の世界から、私がどうやって連れ戻されてしまったのか、それは未だに分かっていない。ただ、あれから数週間が経って、私はやっと泣くことをやめた。それまでは、父が用意した部屋から一歩も出ない生活を送っていたが、こちら側の世界で生きなければならない以上、そんなことは続けられない。
いつまでも親の脛をかじることは、許容できることではなかったので、仕事を探すことにしたが、まだまだ時間がかかりそうだ。気持ちは最悪。まさにどん底だが、死ぬのは嫌だ。嫌だ、というよりは…私にはできない。
気晴らしに外に出て、少し歩いた。父が…いや、父の秘書がどうやって私の住む場所を決めたのかは分からないが、そこは私にとって少しも馴染のない地域だった。不便なことは不便だが、見るものすべてが新鮮であることは、少し救われることだ。
二十分ほど、当てもなく歩くと、小さな公園を見付ける。そこには、小さな湖があって、反射する日光がとても綺麗に見える。私は近くのベンチに座って、少し休憩することにした。久々に歩いたせいか、程よい疲労感があった。
「……結衣?」
暫くすると、声をかけらた。私はその声が誰なのか、顔を確認しなくても理解する。顔を上げると、そこには驚きの表情を浮かべた秋良が立っていた。
「どうして…ここに?」と秋良。
「さぁ、分からない」
「なんで分からないんだよ」
と秋良は笑う。
「そっちは? こんなオフィス街で真昼間に何しているの?」
「あー、最近…仕事を見付けたんだ」
「……え?」
「小さいところだけれど、ちゃんと自立した生活も送れていて…。何て言うか、大人になった感じ」
秋良は照れ臭そうに笑みを浮かべた。今更大人になったという自分と、夢を諦めたことを恥じらう気持ち、それから二本の足で歩いていることを、少しばかり誇らしいと思う気持ちがあるのだろう。秋良は続ける。
「採用してもらったときは、結衣に報告したくて、真っ先に電話したんだけどさ…つながらなかった」
「そうなんだ」
私が携帯端末を処分してから、彼は連絡してきたらしい。秋良は居心地が悪そうに、顔色を変えながらもどかしそうにしていた。何か言いたいことがあるのだろう。
「言いたいことあるなら、言いなよ」
「ご、ごめん。えっとさ…今度、電話して良い?」
「いいけど…私、今電話がないの」
「ない…?」
「壊れて、それからずっと持っていない」
「そうだったんだ」
秋良の顔が少し明るくなった。私が電話番号を変えて、彼と関係を断ったわけではない、と解釈したのだろう。
「じゃあ、俺の番号書くから、今度連絡してくれ」
そう言って、秋良は鞄を漁った。メモ用紙を探しているらしい。
「いらないよ」
「え?」と秋良が私を見て停止する。
「秋良の番号は、記憶しているから」
「……そうか。良かった」
「気が向いたら…連絡する」
「おう、頼んだ」
少しの間、沈黙が流れた。何を話せば良いのか分からないらしく、秋良は落ち着かない様子だったが、腕時計を確認して、我に返ったような表情を見せる。
「そろそろ行くわ。後五分で…昼休み終るから」
「うん」
「じゃあ、連絡待っているから」
秋良は小走りでその場を離れた。背中が消えそうになると、彼は一度振り返って、手を振った。私は軽く手を挙げてそれに応える。
本当に、私がどん底になると現れる、おかしな男だ。そう思うと、自然に笑みが零れた。
もう少しこの公園で休んでから帰ろうと、再びぼんやりしていると、声をかけられた。
「こんにちは」
その声も、顔を確認せずとも、誰なのか理解できた。私は弾かれるように、その声の方に視線を向けた。そこには、長い黒髪に白いワンピースを来た女性が立っている。
「メシア…」
「こんにちは、大原さん」
「どうして…ここに?」
驚きと感動で声を震わせる私に、彼女はいつものように微笑みかける。
「約束を守りに、やってきました」
「約束…ですか?」
「貴方を、向こう側の世界に案内する。この前は失敗してしまいましたが、今度は必ず」
「そのために…来てくださったんですか?」
彼女は頷く。私は思わず涙が零れた。そうか、彼女は約束を守ってくれるのだ。その感動は、私の全身を駆け巡るものだった。
「でも、私は扉を開けられませんでした」
「あれは、ただのお願いだったので、約束ではありません。気にしないでください」
彼女の後方、公園の出口に黒塗りの車が止まった。
「どうでしょう、一緒に行きますか?」
そう言って、彼女は車を指差した。あの車に乗ったら…向こう側の世界に戻れる。彼女が再び、私の魂を救ってくれるのだ。戻りたい。自由な世界に。
彼女は優しく微笑んでいる。弱い私を責めるのでもなく、嘲るのでもなく、ただ優しい眼差しを。
「私は…行きません」
しかし、私は断った。
「そうですか」
彼女は優しい微笑みを浮かべたまま、そう答える。
「理由を聞いても、良いですか?」
「約束をしました。私の連絡を待っている人がいます」
「それは素晴らしいことです。良かった」
「はい」
数秒、私たちは見つめ合った。彼女は私の考えが変わったことに対しても、責めることも嘲ることもなく、祝福してくれているようだった。
「それでは、行きますね」
彼女は踵を返し、車の方へ歩き出す。
「待ってください」と私は彼女を引き止めた。
彼女は首だけで振り返り、少し首を傾げる。
「貴方と出会って、私の心は救われました。本当にありがとうございます」
立ち上がり、深々と頭を下げる。顔を上げると、彼女は私に小さく手を振って、車に乗り込んだ。
彼女と出会わなければ、私はどうなっていたのだろう。自殺だってできない私なのだから、きっとそれなりには生きていたのかもしれない。だけど、彼女は私を本気で救おうとしてくれた。そして、違う世界を見せてくれた。それで、私の心は十分に救われたのだ。
彼女は救世主だ。きっと、これからも、どこかで、誰かを救うのだろう。
第5話 メシア 終わり。
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