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新藤は仕事が一段落付くと、パソコンの電源を切って、体を伸ばした。後は、戸締りをして帰るだけ…と立ち上がると、ドアの向こうから階段を昇る音が聞こえた。如月が忘れ物を取りに来たのだろうか。いや、別のフロアの人間かもしれない。まさか、こんな時間に依頼の相談なんてことは…。新藤が考えを巡らせていると、ドアがノックされた。
「すみません、相談時間は終了していて…」
新藤はドアの方へ向かいながら、場合によっては話だけでも聞いた方が良いだろうか、などと考えた。だが、実際にドアを開け、そこに立っていた人物を見て、新藤は絶句することになる。
「こんばんは」
と訪問者は笑顔を見せる。
「下内さん…」
「野上麗と呼んでください」
新藤は、訪問者である野上麗の笑顔を見て、ナイフでも突き付けられたように飛び退き、臀部を背後にあったデスクに打ち付けてしまう。それを見た野上麗は、目を丸くすると、肩を揺らして笑った。
「そんなに怖がらないでください。今日は、貴方とお話しをしたくて来ただけですから。もちろん、如月さんには秘密です」
そう言って、野上麗は事務所に入ると、新藤の前を横切り、応接用のソファの前に立った。
「座ってもよろしいですか?」
「……どうぞ」
応接用のソファに座られると、新藤は反射的に客のように扱い、彼女のために紅茶を用意した。
「素敵な香りです」
本当に友人の家までやってきたような、野上麗の落ち着きに、新藤は戸惑う。これでは、敵意を持ってやってきた人間を相手にする方がマシだ、と思うほど、妙な感覚だった。野上麗は紅茶の香りを楽しむと、カップをテーブルに置き、ただ新藤を見つめる。そんな時間が続き、野上麗はなかなか話し出すことはなかった。
「それで、話とは…何ですか?」
と痺れを切らした新藤が尋ねる。
「用件以外は話してはいけないのでしょうか? もう少し優しくしてくれても良いのでは?」
「そういうわけには、いきません」
新藤は腕を組む。
「では、用件ですが…約束を守ってもらうために来ました」
「約束?」
「はい。あの施設を出たら、私の人生をサポートしてくれる、という約束です」
野上麗は何の疚しさもないらしく、当然のようにそれを口にした。あれだけのことがあったのに。新藤には信じられないことだった。
「何を言っているんですか。貴方は僕に嘘を吐いていた。そんな約束…守れるわけがありませんよ」
「確かに、私は嘘を吐いていました」
穏やかな笑みを浮かべていた野上麗の表情が、どこか暗く、しかしどこか目を離せないような、人を惹きつけるものに変わった。そして、大きな変化は、その瞳が青く染まりつつあることだった。
「しかし、貴方に支えて欲しいと言った私の気持ちは、嘘偽りのないものです。お願いです、私と一緒にこの世界を変えてくださいませんか?」
野上麗の言葉は、どこか重々しいものだった。人を従わせる何か、迫力のようなものがあった。
「……いえ、僕は貴方とは一緒に行けません」
しかし、新藤はそれにたじろぐこともなく、はっきりと答える。野上麗は、何を思ったのか、僅かに目を細めた。
「どうしてですか?」
「僕は如月さんの助手です。如月さんが貴方を危険視していた。そんな人物に協力するわけにはいきません」
新藤は当然のように言い放った。実際に、彼にとっては当然のことなのだが。
野上麗はそんな新藤を数秒の間、見つめ続けて、何か考えを巡らせているようだった。しかし、青い瞳が少しずつ黒色に戻ると、微笑みを浮かべる。
「そうですか。しかし、私はまだ諦めません」
と、野上麗は立ち上がった。
新藤は警戒し、彼女が何を仕掛けてきても、すぐに対応できるよう、同時に立ち上がったが、彼女は微笑みを残して、ソファを離れると、出口の方へ向かった。
「貴方の目的は…如月さんなのですか?」
野上麗は顔だけ振り返ると、感情のない視線を新藤に向けた。
「そんなわけがありません。私は、彼女のことを数少ない友人だと思っているのですから」
「では、何が目的なのですか?」
「多くの人が自由になる。そんな世界を人類に差し上げたい。私は彼らに貢献したいだけなのです。それが仕事。私の役割です」
「役割…?」
「詳しいことが知りたければ、いつでも私のところへ来てください」
「結構です」
「しかし…貴方は如月さんのことを何も知らない。あの方は人類にとって、有益な存在と言えるのでしょうか?」
「どういうことですか?」
「詳しいことが知りたいですか?」
「結構です」
「……それでは、またの機会に」
野上麗が事務所を出て、新藤は深く溜め息を吐いた。異様に肩が凝った気がするのは、錯覚だろうか。応接用のソファに身を埋め、先程まで正面にあった野上麗の姿を脳内で再生する。彼女は如月の敵。
だが、新藤には彼女が邪悪なものとは思えなかった。むしろ、如月よりも先に彼女に出会っていたとしたら、何らかの形で支えることを選んだかもしれない。そう思える何かが、彼女にはある。
そして、何よりも新藤は見てしまったのだ。彼女の中にある孤独を。それは、如月の仲間である新藤を惑わせるための演技だったのかもしれないが、どこかに本物の感情が含まれた気がしてならなかった。
それでも、如月が敵だと言うならば、新藤は彼女と戦わなければならない。そのときは、躊躇うことはないはずだ。如月が望むのなら。如月が危険な人物だと言うのなら。それを実行するだけだ。
しかし、本当にできるのか。そうやって自分を疑う瞬間がある。自分でも、信じられないことだが…。
新藤は、ふと視線を移動させると、野上麗が口を付けずに残した紅茶が目に入った。何の振動が伝わったのか、紅茶の表面が揺れている。
それはまるで、新藤の心の内を笑っているかのようだった。




