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「何だ、眠いのか?」
と秋良が言った。
「あれ…?」
私は光の中で浮遊していたはずなのに、いつの間にか行き慣れている居酒屋の照明を見つめていたらしかった。
「俺の話、聞いていた?」と秋良。
私は視線を彼に向けると、少し不満そうだが、秋良は楽しそうに笑っていた。メシアとの出会い。山の中の修行。覚者に至る試練。すべて夢だったのだろうか。そう考えると、すべてがぼんやりとした記憶であり、今この瞬間こそが現実であるような気がした。
「ごめん、なんだっけ」
「なんだっけ、じゃねぇよ。割と大事な話してたのにさ」
「えーっと…新しい作品、完成したって話?」
何も聞いていたなかった私に、仏頂面を見せる秋良。
「だから」
少しだけ声を荒げて、もう一度言ってくれるらしかった。
「まともな企業に就職できたんだよ。俺の絵が評価されてさ。まぁちょっと裏方みたいなところはあるけれど、テレビや街中、俺のデザインしたものを目にする日だって、そう遠くはないって」
「……え、本当?」
「……疑っているのか?」
「そうじゃないけど…」
正直言って、秋良には才能がないと思っていた。絵で食べていけるほどの才能が。だから、彼が夢を追えば追うほど、彼自身が傷付くのだろう、と。それが、まさか…。
「それでさ、ちゃんと仕事が続いたらなんだけれど…」
驚きのあまり言葉が出てこない私に、秋良は続けた。
「結衣と結婚したいんだ」
「え?」
「俺と結婚してください」
「本気…?」
「本気」
嘘、どうしよう。美和子に、報告しないと。
「まさか、本当にこんな日が来るとは思わなかった」
と誰かが言った。
ここは…どこだろう。
私はさっきまで秋良と居酒屋にいたはず。
いや、そんな過去を思い出していたのかな…?
「どうしたの?」
と誰かが私に言った。
声の方へ視線を向けると、ウエディングドレスに身を纏った美和子がいた。式の直前なのか、控室のような場所で、メイクをしてもらっている。
「もしかして、寝てないの?」
と美和子は笑う。
「うん、ちょっと緊張して…寝れなかったのかも」
そうだ。明日が美和子の結婚式だと思うと興奮して、昨日の夜は眠れなかったのだ。
「結衣と秋良くんの結婚式も、来週だもんね。忙しい中、ごめんね」
と美和子は笑った。
「何を言っているの。美和子と哲くんの結婚式なんだから、どんな無理してでも出るよ」
美和子は幸せそうな笑顔を見せる。
「ねぇ、結衣。約束…守ってくれてありがとう」
そうだ。私たちは長い間、約束を守り続けた。苦しいことも、裏切られることもあったけれど、それでも私たちは強い想いで信じ続けたのだ。
「美和子だって約束を守ってくれた。だから、私たち幸せになるんだよ。あの約束があったから、今日この日がある。そうでしょ?」
「うん。私たち、間違っていなかったって、証明できたんだね」
……本当に?
私は再び光の中に浮遊していた。
今見たビジョンは何だったのだろうか。まるで夢のようだったが、それにしてはリアル過ぎるし、おぼろげでなく記憶もはっきりとしている。少しだけ考えて、私は理解した。この世界では、イメージしたものは何でも再現できる。限りなく、今となっては向こう側になった現実世界の事象を。
それに気付いた私は、さまざまなものを再現した。子供の頃、夢に描いたこと。羨ましいと思ったこと。憧れたこと。密かに思いを寄せていたあの人。美和子と哲くん、それから秋良と、日本一のクリエイターになることなんかも。
さらに、私は秋良と過ごす一生を再現した。秋良は優しくて、私の幸福を思ってくれた。そこには美和子も哲くんもいたし、あの約束は守られたことになっていた。
自由だった。これは、向こう側の世界にいる人からすれば、現実ではないものだ。でも、私は今、こちら側にいる。こちら側にいる私にとって、ここで起こることは、すべてが現実だ。向こう側に帰る必要もないのだから、これ以上に幸福なことはない。
嗚呼、すべてはメシアのおかげだ。
ここに導いてくれて、ありがとう。
救ってくれて、ありがとう。
「そうだ、約束を守らないと…」
私はメシアとの約束を守る。開けて欲しい扉。そこは、どこにあるのだろうか。私がイメージすると、世界が変化した。光に囲まれた世界から、見渡す限り、血のような赤で染まる世界に。そして、気付けばそこに、巨大な赤い扉がそびえていた。これを開けるのか。
私が扉に向かって手を伸ばすと、私の中から光が溢れる。それは、手の平から放たれ、棒状に伸びたと思うと、壁に突き刺さった。そして、何らかの接触が始まった。
後は待つだけ。メシアが私に手渡した鍵が、この扉を開けるのだろう。そしたら、何かが起こるはずだ。きっと、メシアによる救済ではないか。向こう側に住む、すべての人の魂を救済するような、そんな素晴らしいことが起こるのではないか。
そんなことを考えていると、私の体と世界の境界線がぼやけていくような感覚があった。そうか、私はこの世界に順応した形になろうとしている。いや、形を失おうとしているのだ。正式にこの世界の住人になろうとしている。この扉が開く頃には、それも終わっている頃だろう。
そうなれば、きっとあちら側に帰ることはない。私にとっての現実は、もはやこちら側だ。後悔することはない。
だって、私は救われたのだから。




