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山の中にある施設に移ってから、私は粛々と訓練を続けた。
ここの生活は、規則正しい早寝早起き。朝から昼まで畑仕事で、夜までは自由時間。夜になると、特別な力を得るためのトレーニング。そして、そこで力を得たとしたら、さらに特別なトレーニングに参加できる。私は異例と言えるスピードで、その特別なトレーニングに参加が決まった。
参加が決まった日、父から依頼されて私を連れ戻しにきた人が接触してきた。彼らは参加者を装ってこの施設で生活し、タイミングを見て、私に声をかけてきたらしい。私が拒否を続けると、彼らは強引に連れ出そうとした。しかし、私はここで修行したことで、特別な力を得ている。彼らを撃退することは容易なことだった。
「覚者の試練、貴方には挑む資格があると思います」
メシアが私に声をかけたとき、ついに念願が叶うのだ、と涙した。
「ここに至るまで、貴方がどれだけ苦しい思いをしたのか、私は少なからず、理解しているつもりです。本当にお疲れ様でした」
泣き崩れる私の背を、メシアは何度も撫でてくれた。そんな優しさに私は、やっと解放される、という気持ちでいっぱいになった。
「きっと、その解放感は、向こうではさらに大きいものとなるでしょう」
「やっと…この世界から抜け出せるんですね」
「はい。最後までサポートしますから、安心してくださいね」
「ありがとうございます…」
「ただ、一つだけお願いがあります」
「お願い…?」
「はい。開けて欲しい扉があるのです」
「扉…ですか?」
それから、数日後に行われる最終試練まで、私はこの世界に別れを告げる日々を過ごすことにした。ただ、何をするということはない。朝は日が昇る美しい光景を見て、夜は月の静かな光を見て、三度の食事の美味しさを噛み締める。そんな程度だ。それをメシアに話すと、彼女は笑った。
「そんな快楽は、向こうで好きなとき、好きなだけ味わえますよ」
「そういうものですか…?」
「はい。今この瞬間だけが特別。向こう側では、そんなことはありません」
だとしたら、私にできるこの世界と別れるための儀式とは何だろうか。秋良の顔が浮かぶ。ここに来る前に、携帯端末を処分してよかった。もし、今それを手にしていたら…私は秋良に連絡していたのかもしれない。
そして、ついに試練の当日がやってきた。まだ日も昇らない時間に、メシアが私の部屋を訪ねてきた。
「既に、向こうにつながる扉は開けてあります。私が開けて欲しい扉は、さらに奥。これを持って行ってください」
そう言ってメシアが差し出したのは、ちょうど手の平に収まる程度の、光る球体だった。それに触れると、まるで手応えはなかったが、不思議なことに私の手の平に吸い込まれるように、どこかへ消えてしまった。
「それでは、これでお別れです。今まで、本当にお疲れ様でした」
「はい。本当に、ありがとうございました。貴方に会えて、私は救われました」
「大袈裟です。私は少しだけ貴方のお手伝いをしただけ。すべて、貴方の意志と力によって、達成したことです。誇りに思ってください」
そうは言っても、彼女は私を救ってくれた救世主だ。きっとこれからも、多くの人を救うのだろう。私たちのような、弱い人間を。
私は三人のスタッフに囲まれ、施設を出た。林の中を少し歩くと、プレハブ小屋が現れる。施設の近くにこんなものがあるなんて知らなかった。
プレハブ小屋に入ると、何とか百人くらいは入れるだろう空間があり、その中心には光の扉と言うべきものがあった。光が長方形を描き、人がちょうど通れるようなサイズで浮かんでいるのである。
「あれが、向こう側の入り口です」
とスタッフの一人が言った。私は頷くと、スタッフたちは頭を下げた。
「それでは、この世界が解放されたとき、またお会いしましょう」
彼らが何を言っているのか理解はできなかったが、私が感謝の意味を込めて深々と頭を下げると、スタッフの人たちはプレハブ小屋から出て行ってしまった。私は、意を決して光の扉へ飛び込んだ。
私は眩い光の中を浮遊していた。
右も左も、上も下も、ただ光り輝いている。巨大なスポットライトが、四方八方にあって私を照らしているみたいだが、決して眩しいわけではない。何もない世界のようだが、私という意識が失われたわけではなかった。ここが向こう側の世界。私はここで、どのように過ごせばいいのだろうか。メシアはどんな快楽であっても、この世界では味わえる、と言っていた。
快楽ってなんだろう。私が望むこと。例えば、そうだな…
秋良に会ってみたい、とか。




