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「不法侵入者の割には、気が大きいみたいね」
「離れろ、と言ったんだ」
物怖じしないどころか、自分の発言を無価値であるように振る舞う如月に、大原結衣は不快感と敵意を剥き出しにした。しかし、すぐ余裕に溢れた笑みを浮かべると、大原結衣は言った。
「そう、父に言われるがまま、何も知らないで、この施設に乗り込んできたのね。貴方たちは、きっとたくさんの荒事を解決してきたのかもしれないけれど、ここではそんな経験、何の意味も持たないのよ」
大原結衣は手にした絵筆を持ち上げると、何もない宙にそれを走らせる。それは踊りでも舞うかのようで、大原結衣は異能を振るうことを楽しみ、誰であろうと圧倒的な力で制圧できる、という自信が見えた。実際に大原結衣は、今まで彼女を連れ戻そうと現れた屈強な男たちも、この絵筆を二度三度振れば、無力化できたのだろう。
しかし、異能力を無効化する如月の前では、それは何の意味もない。平然と歩き出し、距離を詰めてくる如月を見た大原結衣は、顔色を変えた。彼女は如月の前進を拒絶するように、何度も絵筆を振るうが、まるで効果がない。
「どうして…!」
今まで当然のようにできたことが、全く意味がなくなってしまったのだから、大原結衣の動揺は激しいものだった。
「私の絵が…」
その呟きが、彼女にとってどういう意味があるものか、如月には理解できないものだった。しかし、異能が通じないことで、彼女に絶望を与えたことは理解している。そして、腕力は人並み以下であろう彼女は、接近する如月を怖れたのか、慌てて距離を取った。自分の身に、何か危険なことが起こるのかもしれない。そんなことを考えたのか、彼女の顔は青くなっている。
「ち、近付かないで。私は…ここから出たりしないから!」
大原結衣は必死に主張するが、今の如月にしてみれば、どうでも良いことだった。如月は彼女に詰め寄るのではなく、床の上で丸まっている新藤の前で腰を下ろした。
「起きるんだ。もう異能は解除されている。一度ここを出よう」
声をかけるが、反応がない。気を失っているのか、と確認してみたが、彼の目は開いてた。ただ、精気のようなものは感じられず、よく見ると寒さに耐えるように震えた。精神を蝕むタイプの異能か、と如月は溜め息を吐く。だとしたら、異能が消えたとしても後遺症が残るかもしれない。新藤がここで回復すれば、大原結衣を捕らえて仕事は終わったかもしれないが、そういうわけにもいかないだろう。
如月は顔を上げ、大原結衣が何をしているのか確認しようとしたが、既に彼女は移動した後らしく、そこにはいない。振り返ってみると、彼女がドアを開いて、部屋を出て行くところだった。人を呼びに行ったのだろう。
「ほら、新藤くん…立つんだ」
如月は何とか新藤に肩を貸して立たせる。如月の声が聞こえているのか、認識しているのかは分からないが、新藤は拙く歩き出した。これなら、脱出だけは何とかなりそうだ。
この部屋まで来たときと同じルートで外に出る。まさか、外で野上麗が待っているのではないか、と嫌な想像をしてしまったが、玄関の前には誰も立っていなかった。施設の中から、少し騒がしい声が聞こえる気がする。如月は何とか新藤を車の中に放り込み、アクセルを踏み込んだ。
施設から十分に離れ、如月は新藤の様子を確認した。助手席に収まるように座っているが、精魂を抜き取られたように項垂れている。
「おい、新藤くん。大丈夫?」
反応がないので、今度は揺すってみることにした。
「おーい、大丈夫か? 異能は解除されている、正気に戻るんだ」
今度は、反応があった。ただ、何かに耐えるように低く唸っている。
「私だ。如月だ。助けにきたんだ。君は異能力を受けていたが、今は安全な場所にいる。分かるか? 私が傍にいるということは、異能による恐怖は一切ない。だから、君はもう大丈夫なんだ。怖くないんだぞ」
まるで、子供に言い聞かせるような口調だったが、如月自身も驚くことに、効果があった。新藤は魂が突然体に戻ったかのように背筋が伸びたかと思うと、視線をさ迷わせた。
「き、如月さん?」
「そうだ、私だ。大丈夫か?」
「だって、如月さんは…僕が、殺して…」
「何を言っているんだ。君は大原結衣を連れ戻そうとして、彼女の異能力を受けた。その頃、私は離れた場所にいた。それに、私を誰だと思っている。君なんかに殺せる私ではないだろう」
「如月さん…生きている。生きている!」
新藤はきっと大原結衣の異能で何らかの幻覚を見せられていたのだろう、と如月は理解した。彼がどれだけの絶望を見ていたのかは分からない。
だが、大して優しい言葉もかけない如月を前にして、涙を零し始めている姿を見ると、余程のことがあったのか。新藤は終いには、如月の膝に顔を埋め、子供のように泣き出してしまった。
如月は困り果てたように眉を寄せたが、仕方なく彼の頭に手を乗せるのだった。
「なるほど。では今から再襲撃だ」
新藤が落ち着きを取り戻し、事情を聞き終えると、如月は何事もないように言った。
「今から…ですか?」
新藤は、如月の前で泣きじゃくった気恥ずかしさが残ってはいるが、彼女の大胆な決断に冷静な意見を返さなければ、と気負う。しかし、如月は強い意志があっての発言らしい。
「大騒ぎがあった後だからこそ、このタイミングで再襲撃があるなんて思わないはずだ。そこをあえて攻める。君だって大した怪我はないだろう?」
「……分かりました。それに、時間もありませんからね」
「その通りだ。あと三十分休んだら、あの施設に戻ろう」
新藤は頷くが、いつもより好戦的な如月に違和感を覚えていた。何かに焦っているのだろうか。如月の感情を乱すような存在を新藤は知らない。
しかし、如月の心を圧迫する何かがあるなら、絶対に自分が守らなければ。新藤は固く決意しながら、体を休めるために目を閉じるのだった。




