14
「晴人?」
すべての思考を切り捨てたはずの新藤に、誰かが声をかけた。
「えっと…」
自分は何をしているのだろうか。
思い返そうとするが、記憶が途切れている。さっきまで、自分が何をしていたのか。ただ、風が気持ち良かった。辺りを見回すと、深い緑に覆われた山や晴れ渡った空があり、どこからか川が流れる音がする。何て心地のいいところなのだろう。
「こんなところで生活できたら、幸せだろうな」
「何を言っているの? ここで生活して、もう三年じゃないの」
その声に、新藤は振り返った。声をかけていたのは、赤い髪の女だ。白いシャツにロングスカート、黒いカーディガンを羽織って、微笑んでいる。
「如月さん…?」
その問いに、赤い髪の女は首を傾げた。
「どうしたの…? 昔みたいな呼び方をして」
昔みたいな…?
「お昼にしよう。今日はドリアを作ってみたの」
「ドリアって、如月さんが作ったんですか…?」
「当然でしょう。さっきから、どうしたの?」
如月の背後には草原が広がっているが、その向こうに二階建ての一軒家がぽつりと立っていることに気付く。
「早く帰りましょう」
赤い髪の女が背を向け、その一軒家の方へ歩いて行く。
そうだった。
あれは、自分の家だ。
そして、彼女と二人で暮らしている。都会の暮らしを離れ、平穏な田舎で、ゆったりとした生活を送っていたではないか。
「うん。帰ろう」
新藤は、自らを包む幸福を実感し、彼女の背を追って歩き出した。
「どうして…?」
と赤い髪の女は顔を歪めた。
どうしてだろう。分からない。さっきまで、二人で幸福な時間を過ごしていたはずなのに。彼女が蹲る床には血が広がっている。女は自分の体を支えていられないのか、壁にもたれた。その腹部に柄のようなものが突き出ている。
包丁だ。
何が起こったのか。困惑する新藤。自分によって、何よりも大切な存在が傷付けられた。誰がやったのだ。この一瞬で何が起こったのかは分からないが…誰であろうが許せない。許すわけがない。しかし、自分の手が血で濡れていることに気付く。
「僕が…?」
赤く染まった手の平を見て混乱する新藤は、助けを求めるように、彼女を見た。しかし、彼女は新藤を憎しみの目を向けている。
「私のこと、守るって言ったじゃない。何があっても、守るって…言ったじゃない」
「そ、それは…」
本当に自分がやったのか。
思い返そうとも、その記憶は途切れている。
「お前が、やった」
と赤い髪の女が言う。
「違う、僕じゃない!」
「お前だ」
その恨みがこもった目に、新藤は一歩下がる。
「お前が殺した!」
その声は、新藤の知る声ではなかった。しかし、色の濃い怨嗟は、新藤の思考を奪い、ただ恐怖と自己否定を促すのである。女はさらに新藤を責め立てる。
「お前は幸せになれない。何かを手に入れても、すぐに壊してしまう。お前がどんなに慎重に守ろうとしても、必ず誰かが壊しにやってくる。他人の手から守れたとしても、自分自身で壊してしまうんだよ」
「そんなことは…」
「でも、お前は殺した。恨みと嫉妬、自尊心、自己保身が、お前を幸せにはしない。自分の感情を優先して、壊してしまうんだ」
そんなことはない、と否定したかった。きっと、愛すると決めた人のためなら、自分の感情なんていくらでも抑えられるし、犠牲にできるはず。どこまでも、守れるはずだ。そうだ。それが愛を捧げるということだ。
「思い上がるな。お前はお前が思っている以上に小さい人間だ。自分のことが大事で、大好きで仕方のない人間なのだよ。誰かのために優しくできるなんて、本当に表面上だけのことだ。自分が否定されたら、蔑まれたら、軽視されたら、すぐに抑えられなくなる。実際に、お前はお前を否定する私を殺してでも黙らせたいと思いっているだろう!」
新藤は否定するつもりだった。それなのに、心のどこかで彼女を拒絶する気持ちがあることは否めない。もし否定され続けた結果、何かの拍子で、何かのタイミングが重なったら…自分は自分を守ろうとしてしまうのではないか。愛する人を拒絶して。
「そうなる。現にお前は、私を殺そうとしているじゃないか」
気付くと、新藤は彼女の胴に馬乗りになって、見下ろしていた。
「…どうするつもり?」
と女は問う。
どうするつもりもない…はずだが、その手には包丁が握られていた。こんなものを持って、どうするつもりだ。こんなもの、すぐに手離して、彼女を助けなければ。そう考えているはずなのに、どこからか怒りが、衝動が、湧き上がり、包丁を握る手に力がこもって行く。
「こ、殺さないで!」
その声は、新藤の知る女のものだった。それなのに、新藤の手は止まらない。振り下ろされた包丁は、女の喉元に突き刺さり、血が噴き出した。返り血を浴びる新藤は、なぜこんなことが起こったのか理解できないが、それは事実として、現実として、彼の手に感触が返ってきた。
新藤の絶叫が響き渡る。
しかし、その叫びがどこで響いたのか、新藤は理解していなかった。




