13
大原結衣は、手にした絵筆を振るった。まるで、目の前にキャンパスが置かれているかのように、絵筆で何かを描こうとしたのだ。すると、彼女が筆でなぞった空間に青色が残る。筆先に絵具が付いているとは思えない。しかし、何もないはずの空間に鮮やかな青が描かれたのだ。
新藤が違和感を抱いている間に、大原結衣が走り出した。駆けながら新藤の横に回ろうとしている。この部屋に誘い込んでおきながら、出て行こうとしているのか。新藤は大原結衣の動きを目で追うが、すぐ異変に気付いた。
先程、大原結衣が何もない空間に描いた青が、新藤の視界に残っている。視界の左隅に、決して大きくはないが、青い塊が染み付いて離れない。目を擦ってみるが、効果はなく、視界にはっきりと残る青色。
これが彼女の異能力だ、と新藤は驚嘆を覚える。同時に、大原結衣がさらに絵筆を振るい、新藤の視界に緑色が広がった。視界のやや左上に、横一線の緑色。やはり、どれだけ視線を動かしても、青色と緑色が視界の中に止まっていた。
彼女は他人の視界の中に、色を描く異能力者らしい。そして、それは彼女が解除するまで視界に残り続ける。目を閉じても、どれだけ視線を動かしても、消えることはない。新藤は大原結衣が持つ異能の特性を理解しつつ、早く彼女を捕らえなければ、視界が色に埋め尽くされるということに焦りを覚えた。
新藤は大原結衣との距離を詰めようとするが、彼女を視界に入れた瞬間、絵筆が振るわれる。それと同時に、視界が色が増えてしまうのだ。このままでは、すぐにでも視界が失われる。新藤の身体能力を持ってすれば、大原結衣を捕らえることは難しくないはずだ。それにも関わらず、新藤が困難を強いられているのは、想像以上に彼女の能力が厄介だからだ。視界が失われて行く感覚は恐ろしく、焦燥感を加速させた。
目を閉じて、気配や音を頼りに…なんてことは簡単なことではない。実際にやってみて数秒で理解した。限られた狭いスペースであれば、視界が狭くても彼女を捕らえることは可能だが、この部屋はいかんせん広すぎる。距離を取りながら逃げ回る彼女を相手するには、圧倒的に不利な空間だと言えた。
そのため、再び目を開いて大原結衣を視界に捕らえようとした新藤だが、さらに彼女の異能を受けてしまう。そして、彼女の異能が発動してから、一分も経過しないうちに、新藤の視界の八割がカラフルな色彩に染まり、殆ど埋め尽くされようとしていた。
「目が見えなくなるなんて、怖いでしょう?」
と大原結衣の声。
目が見てなくても、新藤の頭の中には彼女の嘲笑が浮かんだ。
確かに、大原結衣の異能は恐ろしいものがある。ただ、彼女自身の戦闘力は皆無だ。彼女が人を呼ぶ様子はなく、部屋から出るつもりもないらしい。つまり、彼女に新藤を無力化する手段はないはずだ。
新藤は気持ちを落ち着かせ、目を閉じる。難しいことではあるが、目を閉じたまま彼女を捕らえるしかない。意識を集中させれば、大原結衣がどの辺りに立っているのか、何となくだが把握できた。それなりに距離があるが、目を閉じたまま一気に詰め寄って、大原結衣が逃げ出そうとするタイミングを見計らって、目を開け、彼女が移動する方向を把握し、飛びついて捕らえるしかない。掴んでしまえば、視界が完全に失われていても、彼女を無力化できるはずだ。
しかし、大原結衣の異能力はそんな簡単なものではなかった。目を閉じていると、暗闇の中に浮かぶ数々の色が、位置を変え、形を変え始めた。
「私が起こす奇跡が、ただ視界を塞ぐだけものもだと思った?」
大原結衣の挑発的な言葉。どうやら、目を閉じても何かが起こるらしい。変化する色は、やがて一枚の風景画に完成させようとしていた。緑溢れた山。青色が広がる空。草や川。それは誰であろうが懐かしいと思える、田舎の風景だ。
絵が完成したら…どうなる?
美しい風景画ではあるが、それが異能力によるものだと考えると、見惚れているわけにはいかなかった。新藤は腰を落とし、床を蹴るようにして、駆け出す。そして、大原結衣が立っているだろう方へ一直線に向かう。
間合いは、後数歩…のはずだ。新藤は目を開ける。やはり、後何歩か進んだ辺りに大原結衣が立っていた。大原結衣は絵筆を振りつつ、次の移動に備えて重心を傾ける。左だ。しかし、新藤の視界に僅かに残った空白が、最後の色で埋まってしまった。それでも、この距離であれば問題ない。新藤は左側に飛び出しつつ、手を伸ばした。すると、大原結衣の衣服の一部を掴んだ手応えが。新藤は離すまいと腕に力を込めるが…。
「捕まえたと思っているかもしれないけれど…絵はもう完成しているの。逃げられないのは、貴方の方だから」
新藤の視界は、確かに一枚の風景画によって、完全に遮られていた。目を閉じたとしても、その絵は視界を占領している。目を閉じても暗闇が訪れないことは、想定していたよりも強い不快感があった。だが、それはただ不快感がある、というわけではない。何かがおかしいのだ。
右を見ても左を見ても同じ風景。現実から突き放されたような感覚は、新藤の不安感を煽った。ここにいる。そんな感覚も失われ、自分が存在していることすら自信がない。思考が暗闇に押し潰されて行く。考えれば考えるほど、精神がささくれていった。
考えるな。これは異能力による攻撃だ。新藤は乱れる精神を収めようと、可能な限り思考を無に近付ける。不安に飲み込まれない。その点については、新藤は強靭な精神力を持って、この能力を攻略するつもりであったが、視界を絵に奪われるだけでない、何かが待っている。そんな予感があった。
予感があったとしても、それに思考を向けた途端、強烈な不安に襲われてしまう。新藤は、ただ心を無に近付けるという防御に回るしかなかった。




