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「もう嫌だ。帰りたい」


と如月葵は嘆いた。

ここは、オフィス街の隅にある、薄汚れたビル…等々力ビルだ。外壁は雨だれで汚れ、こんな場所で働いている人間がいるのか、と疑わしくなるが、三階の窓ガラスには大きく如月探偵事務所の文字が。


その如月探偵事務所の所長である如月は、椅子にもたれかかりながら、絶望的な表情を見せている。その如月の助手である、新藤晴人は彼女を一瞥したが、何事もなかったようにパソコンの画面に視線を戻した。


「新藤くん」と如月は呼びかける。


だが、新藤は反応を見せない。既に相談時間は過ぎて、帰宅する時間ではあるのだが、新藤は終わらせるべき仕事が残っていた。そのため、新藤としては如月が愚図り出したとしても、相手をする暇はないのだ。そんな新藤を見た如月は、目を細め、僅かに唇を尖らせ、不満を露わにした。


「あー、また無視だよ。無視無視無視。そんな酷いことされたら、私は死にたい気分になるよ」


それでも新藤は反応を見せなかった。


「新藤くんは私に死んで欲しいんだ。分かった分かった。もう良いよ。知らないからね」


喚く如月に、新藤は深々と溜め息を吐いた。


「…なんですか?」


渋々尋ねる新藤だったが、如月は満足そうに頷く。


「君はさ…昔の自分の言動を思い出したりなんかして、急に恥ずかしくなることない?」


「あー…確かにありますね。何か思い出したのですか?」


「うん」


「どんな過去を?」


「言いたくない」


「じゃあ、話しかけないでくださいよ」


そう言って新藤はパソコンの画面に視線を戻そうとしたが、如月が「待って待って」と引き止める。


「分かるだろう。この恥ずかしくて、消えたくなるような気持ちが消えるまで、構ってほしいんだよ」


「僕…それなりに忙しいんですけど」


「じゃあ、私が死んでも良いってこと? 仕事と私、どっちが大事なの?」


「そ、それは…」


理不尽な質問ではあったが、恋人同士のような会話に、新藤はたじろぐ。


「あー、もう死んじゃおう! 死んじゃいたい!」


「死ぬって言って、どうせ死なないでしょう。軽々しく言っちゃだめですよ」


「あー…じゃあ、死なないけど、もう帰りたい」


「帰っても良いですよ。どうせ、やることないでしょう」


「家に帰っても、帰りたい気持ちが消えないから、私を構えって言っているの」


その言葉に、新藤は眉を潜める。何か感じることがあったのか、首を傾げた。


「確かに…家にいてもどこかに帰りたい、って気持ちになるとき、ありますよねぇ」


ついに新藤が共感を示すと、如月は目を輝かせる。


「そうだろうそうだろう。私はまさにそれ。当てもなくさ迷う悲しい子羊なわけよ」


「あれって、どこに帰りたいって思っているんでしょうね。家にいるんだし、帰る場所なんてどこにもないじゃないですか」


「それはもちろん、ここではないどこか、だよ」


「ここではないどこか…ですか」


「そう。あの現象ってたぶん、忘れたいことがあったり、嫌なことがあったり、そういうときに出てくる感情だと思うんだよね。自分の過ちを消し去りたい。自分はもっと評価されるべきなんじゃないか。


そんな風に思うことはあるけれど、過去の言動は消えることがないし、地道な努力が認めてもらえなければ人には評価してもらえない。そんなとき、ここではないどこかに行けるのであれば、そういった問題を解消できるのではないか、って思うわけだ。


でも、もちろん…そんな場所はどこにもない。それで、人によっては自らの命を断ってしまう。つまり、この世ではなく、あの世に救いを求める」


「それは…そうですね、何となく分かる気がします」


「ここではないどこか。そこに行けたとしても、それは結局は自分にとって、逃げ出したくなるようなここになってしまう。この世界にいる限りは、それの繰り返しだ。自分の居場所を勝ち取るために、戦い続けることが人生なんだろうね」


新藤は黙り込む。彼は人生に行き詰ってしまった誰かのことを思った。それは特定の人物の顔が浮かんだわけではないが、この世界では多くの人が、生きづらさを感じているに違いない。ここではないどこかが存在しないのであれば、その人たちが慰めの言葉を必要としていても、この世界で戦い続けろ、と言うしかないのだろうか。


「新藤くんは、ここではないどこかに、もし行けるのだとしたら、どうする?」


「僕は…現状に満足しているつもりです」


「じゃあ、誰かを助けるために、ここではないどこかに、人を案内できるとしたら…?」


如月の質問は、あまりに現実離れしたもので、新藤にはイメージが浮かばなかった。


「誰かを助ける手段になるなら…それを選択することは、あるのかもしれません」


新藤の返答は、如月にとって満足行くものだったのか。彼女はただ微笑みを浮かべるだけ。ただそれは、どこか寂し気にも見えるものでもあった。


「新藤くんと話したら、何となく気が晴れたよ」


「そうですか。お役に立てたのであれば…良かったです」


「さて、帰るか」


如月がデスクにバッグを置き、荷物を整理し始めたとき…ビルの階段を昇る音が聞こえてきた。如月も新藤を手を止め、ドアの方を見る。相談時間も過ぎた時間に、依頼人が訪ねてくることは滅多にないのだが…ドアをノックする音が。


「どうぞ」


という新藤の声に反応し、ドアが開かれた。そこに立っていたのは、スーツ姿の男だった。


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