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「この部署、月末には解散することになった」
月曜、職場で上司から告げられた言葉は、私を奈落へと突き落とすものだった。嫌なことは続くと言うが、本当にその通りだ。
「それぞれ、別の部署に配属されることになる。それまでは、どうかここで頑張ってもらいたい」
「私の配属先は…どこになるんですか?」
恐る恐る私が質問すると、上司は「木本さんのところだ」と短く答えた。
私の職場は決して大きくはないが、いくつかの部署が存在する。私はかつて木本さんの下で働いていたが、嫌で嫌で仕方がなかった。どうしても、木本さんの人間性を受け入れられなかったのだ。それが、奇跡によって今の部署に移れた…と思っていたのだが。
私はその日、木本さんの部署に戻るくらいなら、と退職の意志を伝えた。会社も残って欲しいという気持ちはないらしく、引き止められることはなかった。
何もやることがなくなってしまった。これから、どうすれば良いのだろうか、と電車に乗りながら考える。そんなときに限って、秋良から連絡があり、電車を降りた後、折り返してみた。
「最近、どうしている?」
と秋良は特に用事があるわけではないようだった。
「別に。最悪の毎日を送っているだけ」
秋良は私の返事を気に入ったのか、声を出して笑った。
「最高だな。まぁ、俺もそんな感じ。今から一緒に飲まないか?」
「奢ってくれるなら良いよ」
「……分かった。じゃあ、今から行くから」
お金なんて持ってないくせに、と私は呆れながらも、自分の口元が緩んでいることに気付き、背筋に妙な感覚が這って行った。
「最近、描いてないのか?」
合流して乾杯すると、すぐに秋良はそんなことを言い出した。
「描いてないよ。もう描かないってば」
「なんでだよ。俺は描いた方が良いと思うよ。絶対、続けていれば、誰かに認めてもらえるって」
秋良は、私に言っているつもりだが、自分に言い聞かせていることは、間違いなかった。
私と秋良、美和子に哲くんは、美術系の専門学校に通っていた。私たちは四人でちょっとしたサークルを作り、一緒に個展を開いたり、イベントを行ったり、一緒に夢を見た仲だ。私は秋良を、美和子は哲くんを、自然と好きになって…少しずつ関係がややこしくなり、サークルは解散。私たちは就職したが、秋良は未だに絵で成功することを目指している。
だから、彼は行き詰ったり、女に振られたりすると、こうして私のところにやってきて酒を飲み、部屋に転がり込む。今日は…たぶん行き詰った方だろう。
「俺は…お前の絵が好きだんだよ」
三時間も飲み続け、次第に呂律が回らなくなった秋良は、そんなことを呟いた。結局、私が会計を済ませ、秋良を引きずるようにして、一緒に家まで帰った。
そこからはお決まり。アルコールが回ってすぐに眠る秋良は深夜に目を覚まし、私を抱く。私の都合なんて関係なく。私は仕事なので朝一で部屋を出て、くたくたになって帰ると、秋良はダラダラと過ごしているか、痕跡もなく姿を消しているのかのどっちかだが、今日は後者らしい。
また暫くは秋良から連絡してくることはないだろう…と思っていたら、珍しいことに、その日のうちに電話がかかってきた。
「もしもし」
と秋良の声が聞こえてきたが、何かがおかしい、ということはすぐに察した。
「…うん」
私も強い警戒心を強めながら返事をすると、秋良はどこか遠慮がちに言った。
「突然なんだけどさ…もう俺たち、会うのやめよう」
後ろでヒステリックな女の声がした。
二度と会わないし、連絡してくるな、と言え。そう聞こえた。私は自分から秋良に連絡したことはない。それなのに、会うときは私から連絡しているような言われ方は釈然としないものがある。
「…そう」
私は相手をする気にもなれず、自分から電話を切った。最後まで女の喚き声が聞こえたのが、私の感情をかき乱した。
いつかこんな日が来る。分かっていながらも、いざそのときが訪れると、気持ちが落ち込むものだ。こういうときは、同じ気持ちを共有できるはずの美和子と一杯飲むところなのだけれど…彼女はもう失われてしまった。
ふと気付く。
私は親友を失い、男を失い、仕事も失ってしまったのではないか、と。
この喪失感は、何なのだろう。美和子は私と同じ境遇にありながら、幸せを掴んだ。いつかは私を捨てるだろうと思っていた秋良は予想通りで、仕事もいつかモチベーションが尽きるだろうと分かっていた。だからと言って、殆ど同じタイミングで失うなんて。
なんだか、この世界に見放されたような気分だった。私は家に独りでいるのが嫌で、何をするというわけでもなく家を出た。当てもなく歩き続けて、気付いたら見知らぬ駅の前。何も考えずに歩いてきたせいで、帰り道が分からず、既に終電を迎えているため、途方に暮れてしまった。
どうして、こんなにも惨めな気持ちになっているのだろうか。きっと、私はこの世界の人間ではないのだ。だから弾き出された。
朝になったら、この世界からさよならしよう。
でも…痛いのは嫌だ。
死ねないのだから、きっと私はこうやって、惨めに生きて行く。嫌だけど、死にたくないから生きているだけ。帰りたい。でも、どこに…。きっと、この世界ではないどこかにある、私の帰るべき場所…。そんなものはないと分かっているけれど、私はここではないどこかに、思いを馳せてしまうのだった。
情けなさが溢れ出して、茫然としていると、視界の隅に妙に主張が強い看板が入った気がした。なんだろう。本当に何気なくその看板を目にしてみると、得体の知れない強いメッセージがあった。宗教団体だろうか。それとも自己啓発セミナーだろうか。
「貴方も魂の解放を。安心できる明日を創る会」
そんなメッセージを眺めながら、この団体は、私の惨めな魂を解放してくれるのだろうか、と考える。私の帰る場所。この世界の向こうに、導いてくれるのか。
「貴方の魂は惨めではありませんよ」
突然、後ろから声をかけられ、振り返る。
「この世界の向こう。もしかしたら、私が貴方をそこまで案内できるかもしれません」
そこには、長い黒髪の女が立っていた。
彼女は優し気に微笑んでいたが、その目は怪しい月光を連想させる、薄い青色に輝いていた。




