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いつか、その場所に――。



「私、結婚する」


美和子に告げられたとき、自分の人生を支えていたものが、崩れる音を聞いた気がした。雨の日の日曜、駅前まで美和子に呼び出されたとき、何か嫌な予感がしていたけれど、それは想像以上に私を追い詰めるものだった。


「結婚って…誰と?」


きっと私が思っている人とは違う名前が出るのだ、と分かっていながら美和子に確認する。


「会社の同僚」


美和子はそう言って、決まり悪そうに「哲ではないよ」と微笑みを浮かべた。


それは、裏切りの宣言だった。


私と美和子は、ずっと止まった時間の中で生き続けるはずだった。お互い、前に進まないという約束。それはお互いが幸せになるための、誓いであり、祈りである。そういう約束だった。


それなのに…美和子は結婚すると言う。哲くん以外の人と。


愕然として言葉が出てこない私を見て、美和子はどう思っただろうか。彼女が何も言わなかったせいで、私たちの周辺は暫く雨の音だけに満たされていた。


「結衣も…そろそろ自由になった方が良いよ」


美和子は手にしていた紙袋を私の方に差し出した。


「借りていた本、返すね」


紙袋は、中身が雨に濡れないよう、丁寧にビニール袋で覆われている。美和子らしい気遣いだ。受け取ってしまったら、私は美和子の結婚を認めなければならない。それは自分が孤独を受け入れることでもあったが、私がそれを拒否したところで、事実は変わらないのだ。


私はおずおずと手を伸ばし、それを受け取る。美和子はすぐに手を引いたが、立ち去ろうとはしなかった。私も何か言うわけでもなく、立ち去らずにいた。また、雨の音だけが騒がしく、私たちはただ立ち尽くす。それを遮ったのは、またも美和子だ。


「……私のこと、責めても良いんだよ」


「責めるって…どうして」


私は彼女が何を言っているのか、理解しているくせに、その意味を問いただす。彼女は説明しようとしたのか、僅かに唇が動いたが、そこから言葉は出てこなかったらしい。


「また会える?」


美和子は笑顔を浮かべて、そう私に尋ねた。しかし、私は首を横に振る。


「もう会えない。たぶん、会いたいなんて思えない」


美和子の笑みは少しずつ消え、彼女は肩を落とした。


「うん、そうだよね。……私、引っ越すと思う。だから、この辺りで偶然会うなんてこともない。再会することも、ないと思う」


「そうしてくれると、有り難い」


私の声は、震えていた。今にも泣き出しそうだったから。もう二度と美和子に会えない。その悲しさはもちろんあったが、それよりも彼女を責め立てたい、という気持ちが強かった。


「……じゃあ、もう行くね」


美和子は黙っている私と対峙していることに耐えられなくなったのか、すぐ傍に止めてあった自転車に跨った。ペダルに足を乗せ、踏み込もうとしたが、振り返って私を見た。私たちは見つめ合ったが、どちらも言葉が出てこない。結局、美和子は視線を落とし、消え入りそうな声で言った。


「約束、破ってごめん」


私は彼女の謝罪を受け入れることは、できなかった。黙って、彼女が去るのを待つだけ。できるだけ、気持ちを抑えているつもりだったが、もしかしたら顔には感情が出ていたのかもしれない。その証拠に、美和子は青ざめた顔で言った。


「でも、きっと結衣にも…」


「良いよ」


私は美和子の言葉を遮った。


「裏切った人の言葉なんて、聞きたくない」


美和子は青くなった顔をゆっくりと背け、雨の中、自転車で立ち去って行った。


一人になった私は、傘もささずに歩き出す。家に帰るのが嫌で、どこと言うわけでもなく、ただ歩いた。雨に打たれても、別にどうでも良い。これだけ雨に打たれたら、風邪を引いてしまうかもしれない。明日も朝早くから仕事だが…それも別にどうでも良かった。


私なんて、壊れてしまえ。


このまま雨に打たれ、壊れて、道端で倒れてしまうのだ。そして、車に轢かれて、誰にも助けてもらうことなく、雨に晒され、少しずつ弱って息絶えればいい。


しかし、私がどんなに危なげに歩いても車はぶつかってこなかったし、雨だって止んでしまった。ただ歩くことに疲れた私は、家に帰って玄関で倒れた。体調が悪くなったわけではない。ただ、何もする気力がなかっただけだ。


電話をかけたい。そんな気持ちが過って胸が痛んだ。携帯端末を取り出し、ディスプレイを見つめる。誰かから着信の通知があるのではないか、という期待を否定しながら。もちろん、誰からの連絡もない。


「結衣はもっと素直になるべきだよ」


いつだったか、美和子に言われた。彼女こそ、ずっと哲くんの前では素直ではなかったくせに。きっと、彼女はあの時から、別の誰かの前では素直になったのかもしれない。


私は携帯端末に登録された電話帳を開き、秋良の番号を見つめる。何度も見つめたその番号は、頭の中にしっかりと記憶されている。


あの男は、きっと暇だ。私から電話をしたら、出るに違いない。でも、出たとして…私はあの男に何を言うのだろうか。


会いたい?


そんなことを伝えても、あの男は一晩私を相手にしたら、すぐにどこかへ行ってしまうだろう。そんな男に…。


意味もなく、そんなことを考えていると、私は眠り込んでいた。起きたときには、八時という中途半端な時間で、日曜日を無駄にしてしまったという後悔と、美和子との別れが現実であることを再認識する、という絶望を味わうのだった。



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