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孝弘くんが、陽菜ちゃんのことを好きだって、もちろん気付いていた。
だって、孝弘くんは陽菜ちゃんがいるときと、いないときでは、全くの別人だったから。それは言動が変わるとか、表情が違うとか、そういうことじゃない。本当に、空気が変わる。幸せそうな何かが出ているのだ。きっと、彼の背中にはスイッチがあって、陽菜ちゃんがそれを押しているのでは、と疑ってしまうくらいに。
それでも、私は孝弘くんがずっと好きだった。
なんでだろう。彼が私を特別扱いしてくれたことなんてないし、二人だけの想い出みたいなものがあるわけでもない。でも、表情も感情の起伏も乏しい彼が、時々見せる人間らしい顔は、とても愛しく思えるものだ。特に氷が溶ける瞬間みたいに、笑顔を見せるときは、本当に可愛いと思う。何も感じていないふりして、実は拗ねているところも。頼られて張り切っているところを気付かれないようにしているところも。
でも、そんな孝弘くんが見せる表情は、すべて私のためではない。
彼の魅力に気付いているのは、私だけなのに。
陽菜ちゃんのことは大嫌い。
私が欲しいと思っているもの、全部持っている。なのに、自分が世界で一番不幸だ、という顔をしているからだ。
私は全部知っている。
陽菜ちゃんが大学を休みがちになったのは、ただ単にサークルの先輩に振られたからだ。
しかも、勇気を出して告白した結果…というわけじゃない。先輩に彼女がいるって気付いただけ。好きな人に、好きな人がいただけで、どうしてあれだけ自分こそが誰よりも不幸だ、という顔ができるのだろうか。隣には、孝弘くんだっているのに。
しかも、陽菜ちゃんは孝弘くんが自分のことを好きだって、理解している。明確に言葉にしたことはないけれど、絶対に理解しているはずだ。だからこそ、甘えたいときは甘えるし、必要ないと思ったときは突き放す。そんな態度に、一喜一憂する孝弘くんは、本当に可哀想だった。
そんな日々に折り合いを付けながら、自分の気持ちを押し込めることが、私たちの日常だった。三人とも気持ちが思い通りに伝わらない。それでも、私と孝弘くんがバランスを崩さないようにしていれば、三人の関係に亀裂が入ることはないはずだった。
それなのに、陽菜ちゃんが変なセミナーに参加し始めて、深浦芳次と親しくなった。それから、陽菜ちゃんは孝弘くんのことを邪魔者であるかのように扱い、私はそれが不快で堪らなかったのだ。
陽菜ちゃんと芳次は、いつもベタベタしていて、二人がいると妙に甘ったるい空気が流れて、本当に気持ち悪かった。特に陽菜ちゃんは、芳次がいると今まで見せたこともない、女の顔を見せた。
私はそれまで、色恋沙汰に溺れる女というものを知らなかったが、陽菜ちゃんを見て、これがそうなんだ、と理解したのだ。でも、何よりも許せないことは、孝弘くんの前でも陽菜ちゃんがそんな顔を見せることだった。
孝弘くんは表情にも言葉にも、出すことはなかったけれど、陽菜ちゃんと芳次の関係を見て、どう感じているかなんて、一目瞭然だ。二人は薬を飲んで、溶けた表情で、唇と唇が触れるくらい顔を近付けて笑う合う。そんなとき、私は心の中で「やめてくれ」と何度も叫んだ。それでも二人は何度も意識を交わらせて、私たちの認識できないところで、お互いを貪り合う。私は孝弘くんに何と言えば良いのか分からなかった。
「俺はプシヒーの力を手に入れたい」
ある日、孝弘くんが私に言った。
「でも…私たちはイスヒスだよ。こればかりは薬との相性だから、変えられないって…」
「御薬袋さんは、薬を何度も試しているうちに、両方の力を使える人が稀に存在するって」
「このままで…良いと思うよ、私は」
孝弘くんは引き止める私が疎ましいのか黙ってしまう。
「無理してまで、手に入れるものじゃないよ」
と私は付け加える。
そうだ。無理をする必要はない。
それだけの価値は…あの女にはないのだから。
「でも、俺には必要なことなんだ」
彼は私が伝えたいことを理解してくれたのだろうか。
それから、孝弘くんが薬を飲むとき、私は傍にいた。プシヒーの力が手に入るまで、何度も薬を飲むが、彼はどうしてもイスヒスだった。
そして、何度も続けて薬を飲むものだから、孝弘くんはイスヒスの力を持て余した。力によって溢れ出す、抑えきれない衝動。それを受け止めるのは私だ。
同じイスヒスである私だからこそ、彼の暴力的とも言える衝動を受け止められる。彼の激しい感情を受け止めることは、私を酷く消耗させたが、構わなかった。むしろ、そんな疲労に私は、快楽と幸福すら感じていた。
時には、陽菜ちゃんと芳次が共感し合う個室の隣で、私は孝弘くんの衝動を受けていた。その度に、彼がどんな気持ちなのか想像し、暗い気持ちにはなるが、それでも私は、孝弘くんの役に立っていると思うと、辞められなかった。
辞められなかったし…満たされていた。




