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「それ以上は、駄目だ!」
新藤の制止を聞かず、孝弘は薬を口の中に放り込んだ。膝を付き、動けないはずの孝弘だったが、筋肉は隆起し、血走った目で新藤を捉えた。それは、既に孝弘ではなかった。凶暴な本能を宿した、暴力的な生物でしかない。
「どうして…そこまで!」
新藤の声に反応するように、それが動いた。いや、消失した。
そして、次の瞬間には、新藤の目の前に。新藤は直観で身を捌くと、顔のすぐ傍で突風が突き抜けた。それは、孝弘の拳に違いなかったが、視認できるものではない。ただ、新藤の予測が当たったから、躱せたようなものである。
だが、きっと次の一撃が来る。
新藤はすぐに射程距離から離れるつもりだったが、孝弘の動きは、人間が出せる力の限界を遥かに凌駕するものだった。
新藤が先に動いたはずにも関わらず、後にが放った孝弘の拳が新藤を捉えたのである。新藤は腕で防いだが、まるで骨が軋むような一撃であり、その衝撃に体は後方に引っ張られた。
地面に転がる新藤は、痛みを無視して立ち上がり、すぐにでも孝弘の次の攻撃に備えようとしたが、彼はすぐ目の前にいた。新藤は、避けるよりも攻撃に転じる。
拳を右左、連続で孝弘の顎を捉えた…が、異常に堅い感触があるだけだった。彼の顎は少しも衝撃を受けていないらしい。どうやら、首の筋肉が異常に発達しているため、新藤の攻撃では脳を揺らす程のダメージを与えられないようなのだ。
新藤は距離を取って、作戦を立て直したかったが、遅かった。孝弘が、障害物を跳ね除けるように腕を振るい、それを受けてしまった。薙ぎ払われるように、新藤は吹き飛ばされて、ゴミ屑のように地面を転がった。まるで、体がへし折れてしまうような一撃だ。
これ以上、受けるのはまずい。後どれくらいで薬は切れるのだろうか。それまで、自分の体は持つのだろうか。新藤は立ち上がろうとしたが、体が上手く動かない。
そんな新藤を見た孝弘は、まるで興味を失ってしまったかのように、踵を返して別の方へ歩き出してしまった。どこに向かうのかは、考えなくても分かる。朱里たちの方だ。彼女たちは、異常発達し、別の生き物のような孝弘を見て、驚愕に身動きを忘れているようだった。
「逃げて、陽菜さん!」
促したのは、新藤ではない。芳次だった。彼は陽菜だけは無事でいられるよう、彼女の背を押して離れるように訴えた。
「駄目だよ、一緒に…一緒に逃げよう!」
と陽菜は叫ぶ。
一緒に逃げよう。
その言葉に反応して、孝弘だった何かは、足を止めたように見えた。
「大丈夫。僕は絶対に君を守るし、死ぬつもりだってない」
「やだ。やだよ! やっと見つけたのに…。私のこと、全部理解して、全部受け入れてくれる人…やっと見付けたのに!」
陽菜の絶叫に、孝弘だったものは激しく反応した。獣のような咆哮が、森中に轟く。
「僕たちに、近付くな!」
芳次が手の平を孝弘だったものに向ける。そこから、何かエネルギーが発せられたのかもしれない。それは、普通の体を持つ人間であれば、衝撃を受けて倒れるほどの威力があるものなのだろう。芳次は、自分たちに襲い掛かろうとする化物を倒すために、力を使ったのだ。
しかし、その化物を止めるには、十分な力ではなかった。ほんの僅かに仰け反ったような反応はあったが、彼の歩みは止まらない。
ただ芳次は、新藤が立ち上がるための時間は稼いだ。新藤では、この状況を変えることは、できないかもしれない。それでも、彼は陽菜たちを逃がすだけの時間は作れるだろう。
何とか、孝弘だったものを抑え込もう。決意して駆け出す新藤だったが、孝弘だったものに飛びかかる瞬間、思ってもいない方向から衝撃を受け、その身は宙に投げ出された。何が起こったのか、理解できないまま、彼はまたも地の上を転がった。
拳の一撃だった…と思う。
ただ、その一撃は普通のものではない。
乱条だって、これだけの威力は出せないはずだ。薬の力を使った孝弘なら有り得ることだが、彼は目の前にいたのだから…。
新藤は体勢を立て直し、顔を上げて、誰が自分に一撃を与えたのか、確認した。
そこにいたのは、朱里だった。
「邪魔しないで!」
「…え?」
朱里は新藤を一睨みすると、孝弘だったものを見る。そして、狂気の笑みを浮かべて叫ぶ。
「孝弘くん、そいつらを殺して!」
朱里の言葉に、陽菜も芳次も愕然とした表情で、彼女を見た。
「そんな勝手なやつら、殺しちゃおうよ! そしたら…私たちは、前みたいに一緒にいれば良い。そうすれば、幸せだよ。また楽しい毎日が戻ってくるよ。だって、私と孝弘くんは同じイスヒス…相性だって抜群だもん。…そう、陽菜じゃない。孝弘くんは、私と相性が良いはずなんだから!」
新藤は理解する。
朱里は最初から嘘を吐いていた。
彼女も、薬を使って異能を手にしていたのだ。そして、その目的は二人の友人を助けることではなかった。孝弘を…
孝弘だけを自分のもとに取り戻すことだったのだ。
孝弘だったものは、朱里の言葉が聞こえているのだろうか。考え込むように、動きを止めていた。新藤は立ち上がり、止めに入ろうとしたが、朱里が飛びかかってきた。
「新藤さん、お願い。邪魔しないで! やっと邪魔者が消えるの。私たちの邪魔者が、やっと消えるんだから」
どれだけ薬を服用したのだろうか。朱里の力は凄まじいものだった。それに対し、孝弘の体が萎みつつあることを、新藤は横目で確認していた。
いくらか、薬の効果が切れたのだろう。とは言え、普通の人間を撲殺するだけの膂力は十分にあるはずだ。孝弘が絶叫を上げ、拳を振り上げた。新藤は朱里の怪力を受けながら、思った。
駄目だ。今度こそ間に合わない、と。しかし…。
「いや、間に合った」
その声はすぐ傍ら。視線を向けると、赤い髪をなびかせた、如月が立っていた。




