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如月の行く手を阻む影添は、不気味な気配を放っていた。黒いスーツのせいか、マジシャンのような底知れむ何かが窺えた。影添がスーツの懐に手を入れた。
まさか、銃でも取り出すのではないか、
と如月は警戒したが、影添が取り出したのは、一枚の紙切れだった。
ハンカチを広げた程の大きさがある、薄い紙。普通であれば、そんな紙切れで何ができるのか、と鼻を鳴らすかもしれないが、如月は警戒心を強めた。野上が連れていたのだから、異能力者に違いない。異能力を使うのであれば、場合によっては銃よりも脅威的である。
如月は既に異能キャンセルを展開していた。これで如月を中心とする、半径二十メートルは、一切の異能力を発動することはできない。だが、如月は少しも警戒を弱めるつもりはなかった。なぜなら、野上の息がかかった能力者であれば、異能キャンセルも対策済であるに違いない、と考えたからだ。
影添は手にした紙切れを手離した。空気抵抗を受けながら、紙は宙を舞い、ゆっくりと地に落ちるかのようだったが…突然、それは形状を変化させた。
ただの薄い紙だったはずのそれが、急に膨らんだかと思うと、獣の四肢らしきものがが現れ、頭部らしきものまで突き出す。
一枚の紙切れが着地する頃、一匹の犬に変わり果てたのだ。
犬は自らの獰猛な本能を示すかのように、唸り声を上げる。それを見た如月は、舌打ちでもしたい気分だった。やはり、影添は異能キャンセルを防ぐため、何かしらのプロテクトがかかっている。だとしたら、簡単にはここを突破することは不可能だろう。
異能キャンセルは、例えプロテクトがかかっていても、時間をかければそれを解除し、異能を封じることも可能だが、そのためには如月自身の動きを制限しなければならない。もう一つは、直接触れて異能をデリートする方法もあるが…それも多少の時間が必要だ。
影添の異能を避けながら、それを一人で達成することは、かなりの難易度だと言える。如月は気持ちを切り替えなければならなかった。野上を追うのではなく、目の前にいる影添を排除すべきだ、と。
犬が駆け出し、真っ直ぐ如月へ向かってきたが、彼女は取り乱すことなく、待ち構える。犬は距離を詰めると、飛びかかろうとした。それに対し、如月はまるで赤子を撫でるように、手を伸ばした。飛び掛かろうとした犬の頭部に、如月の手が触れると、一瞬遅れて、それは消滅した。まるで、最初から存在していなかったかのように。いや、一枚の紙切れが如月の前に舞い、そこに犬がいたことを表す、唯一の痕跡だった。それを見た影添は、奇跡でも目の当たりにしたかのように、嬉々とした表情で目を輝かせた。
「これが噂に聞いていた、如月様の異能キャンセルですか。確かに、我々のような異能力者にとっては脅威的と言えますね」
「大丈夫。貴方は今日から、普通の人間になるのだから。私のことを怖れる必要なんてない」
如月の挑発に、影添は小さく笑みを浮かべた。
「それは困ります。私たちは、まだやるべきことがあるので」
「あの女に唆されて、何をするつもりなの?」
「唆されて…? あの方は我々を正しい道へ導いてくれているのです。唆すなんて、決して」
「そう。でも、どうでも良いことだわ。あいつと同じ道を、貴方はもう進むことはない」
「貴方一人で、私の異能を封じれると?」
「もちろん」
「既に決まったことのように言いますが、どうでしょうか。貴方は私の異能を防ぎきれない。なぜなら」
影添は両手を懐に入れると、二枚の紙切れを取り出した。
「私が操る式神は、一体とは限りませんから」
式神、と言ったか。式神と言えば、陰陽師が使役する鬼神で、自在に姿を変えるものだ。紙を犬に変化させるだけの能力、と捉えるのはまずいかもしれない。
実際、影添は二枚の紙を犬に変化させつつ、さらに懐から取り出した紙を、カラスに変化させた。これには、流石の如月も嫌な予感がして堪らなかった。カラスは羽ばたいて高い位置に移動したかと思う、如月の方へ一直線に向かってくる。如月がそれを手で振り払おうとしたが、目の前で急上昇し、頭上へと舞い上がった。
それに気を取られているうちに、二匹の犬が如月に接近していた。両側から飛び掛かるそれに、如月は反応が遅れる。一匹を右手で触れて消滅させたが、もう一匹は如月の腕に喰らい付く。肉体的な痛みを久々に感じ、妙な感慨に耽る如月だったが、すぐさまその犬に手で触れて、消滅させた。影添に視線を向けると、彼は既に二枚の紙を取り出していた。そして、勝ち誇ったかのような笑みを浮かべる。
「私はこのように次々と式神を作り出せます。さらに野上様の加護を受け、異能キャンセルは通じません。つまり、如月様でには私を止めれないのです。どうか、ここは退いていただけないでしょうか?」
如月はたった今、犬に噛みつかれた腕に視線を向けた。血が出ている。痛みも先程より強くなっていた。だが、それだけのことだ。
「この程度で、私に勝ったつもりなの?」
如月の言葉に、影添は笑みを消した。如月の態度に、底の知れなさを感じたのだろう。
「……分かりました。では、もう少しお付き合いください」




