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もう少し休みたかったけど…。そんな心の声は、また別のものに変化することになった。それは、また新たに足音が近付いてきたからだ。
「おう、新藤。やっぱり、ここにいたか」
新たに登場したのは、スカジャンを羽織った金髪の女だ。
「乱条さん…貴方こそ、やっぱり来たんですね」
「当然よ。ここ最近暴れ回ってた異能者どもの親元がいるかもしれないって話だ。逃がすわけには、いかないよなぁ」
「親元、ですか」
異能対策課は、何やら情報を掴んでいるらしい。その親元というのは、御薬袋という人物なのだろうか…と考えるのは後である。乱条が現れた限り、何としてもここから脱出しなければならい。そうでなければ、陽菜と孝弘は警察に捕まってしまうだろう。
異能犯として捕まった場合、二度と帰ってこなくなることだってあり得る。それは今回の依頼を達成できないことと同じ意味だ。そのため、何とか陽菜と孝弘を逃がさなければならなかった。
「孝弘くん、悪いけど…陽菜ちゃんは預からせてもらうよ!」
まるで悪役のセリフを吐いた新藤は、陽菜の肩を担いで個室がある通路に戻る。先程、そちらの突き当りに非常口があるのを見ていたのだ。陽菜は意識がはっきりしてきたのか、足取りが確かになりつつあり、新藤はスムーズに非常口を出れた。
どうやら、異能対策課はそれほど多くの人員を引き連れているわけではないらしく、非常階段で待ち伏せしているわけではないらしい。しかし、追ってくるのは異能力者と乱条だ。足手まといを連れて、逃れることができるだろうか。さらに言えば、足手まといは一人ではない。
放ってきたつもりの芳次が、どういうつもりか一緒に脱出を試みるつもりらしく、すぐ後ろを走っているのだ。乱条と孝弘が交戦状態になれば、逃げ切ることはできるかもしれない。ただ、それは朱里からの依頼を半分しか達成できないことになってしまうのだが…。
非常階段を降りて、施設の外に出た。
「あの…何が起こっているのでしょうか?」
芳次は意識がはっきりしてきたらしく、顔色も少し良くなっていた。
「ごめん、それは後で。とにかく、ここから離れよう」
ビルとビルの間にある、狭い通路を抜け、人通りの多い道に出た。如月に連絡を取り、合流したいところだが、孝弘を撒けただろうか。後ろを確認したところ、気配はなかったが、別の方向が何やら騒がしい。そちらに目を向けると、人混みをかき分け、こちらへ一直線に向かってくる孝弘の姿が見えた。
日曜日であるため、いつも以上に道は人で溢れているが、孝弘はアフリカゾウのように、突進してくる。これは走ったところで、追いつかれることは間違いない。
「ちょっと、彼女をお願い」
未だに足取りがしっかりしない陽菜を芳次に預け、新藤が向き直ったとき、孝弘は十メートル以上は離れた場所を歩き、まだ人混みをかき分けていた…が、彼は突然、腰を低くして、力を溜め込むような姿勢を見せた。
そして、彼は跳躍する。
いや、それは跳躍と言うよりも、飛翔に近かった。
多くの人々の頭上で放物線を描いた孝弘は、新藤の目の前で着地すると、間髪入れずに拳を放ってきた。超人的な跳躍力に度肝を抜かれた新藤だが、何とかその一撃を避け、間合いを作る。
離れた瞬間、新藤は高速の蹴りを放ち、孝弘の横腹を叩いた。だが、例の如く孝弘はクッションで叩かれたかのよう、ダメージを受けた様子は見せず、新藤の足を掴もうとした。だが、新藤は素早く足を引いて、さらに一撃を放つため、右の拳を引いた。
「隙ありー!」と叫んだのは、新藤ではない。
新藤は側面から突然の衝撃に襲われる。何が何だか分からないまま、痛みと衝撃に吹き飛ばされるようにして、地面に倒れ込んだ。
「な、なんだ?」
新藤は顔を上げ、何があったのか確認すると、そこに乱条の顔があった。
「おい、お前ら。全員、動くなよ」
乱条は陽菜と芳次、孝弘に向かって警告するが…なぜか最終的に視線を向けたのは、新藤だった。
「特にお前だ。お前は明らかに危険人物だからな。ほら、立てよ。今すぐのしてやる」
「え、僕ですか? もっと暴れている人…いたと思うんですけど」
と立ち上がりながら新藤は訴える。
「はぁ? 見てねぇな。あたしは、お前がそこの大男を蹴り飛ばしているところを見ただけだ」
乱条は有無を言わさない様子で、ファイティングポーズを取る。
「乱条さん、遊んでいる暇あるんですか? もっと、やるべきことあるでしょう」
「おう、それがお前をぶん殴ることだ、って言っているんだ、よ!」
乱条の右ストレートが飛んできた。孝弘のそれとは違い、切れとスピードが凄まじく、新藤は腕でガードするしか選択肢はなかった。女性でありながら、乱条の一撃は決して軽いものではなく、新藤は痛みに顔を歪めた。そんな新藤を嘲るように、乱条は笑みを浮かべる。
新藤は反撃の左フックを乱条のボディ目がけて放つが、彼女が素早く身を退いたため、空振りに終わる。さらに右のミドルキックを放ったが、乱条はそれを腕で防ぎ、追撃の左ストレートも身を捌いて躱されてしまった。新藤は一度離れて体勢を整えたかったが、乱条の素早い右のパンチが襲ってくる。それを腕でガードしつつ、何とか間合いを取ったが…。
「あ、ちょっと!」
新藤が手を伸ばしたが、それを止めることはできなかった。孝弘が、陽菜と芳次の方へ駆けたのだ。孝弘は芳次を振り払うと、陽菜を抱きかかえ、あの超人的な跳躍力によって、人混みの向こうへ消えてしまった。乱条は何を考えているのか、無表情でそれを見ている。新藤は舌打ちし、芳次の方へ走った。
「ほら、立って。行くよ」
芳次を立たせ、走るように促す。乱条が追ってくるかと思ったが、特にそんな様子はなかった。暫く走って、孝弘も乱条も追ってこないだろうと安心はできたが…。
「あの、大丈夫ですか?」と芳次が声をかけてきた。
「う、うん。僕は平気。君は?」
「大丈夫です」
新藤は溜め息を吐く。安堵したからではない。依頼は飽くまで陽菜と孝弘の確保である。せっかく彼らを見付けたのに、どちらも取り逃してしまった不甲斐なさに、落胆したのだ。
新藤はやっと如月からの電話に気付き、お互いの無事を確信した後、合流して事務所に戻ることになった。




