1. 異変
平穏な城下の日常を破る、ラグメイノ【喰竜】級の魔物の出現から十日ほどが経った。
あの後二、三日は調査や何やらで騒がしかったこのクラリオン近辺も、だいぶ落ち着いてきている。
「いらっしゃ……お」
「邪魔するぞ」
カランと軽快な音と共に、酒場に入ってきた人物に椋は軽く手をあげた。
青年は、当然のように厨房内の椋の目前にある席に腰をかける。シンプルだが小ぎれいな服装をした浅黒い肌の男、クレイは、椋の新たなお得意様だ。
サービスに出してやった水をひと息で飲み干した彼は、ふう、とどこか重たげな息をひとつ吐く。
「いつもどうもごひいきに、クレイ。……なんか疲れてるな。大丈夫か?」
「否定はしない。リョウ、あっさりしたものが欲しい」
「はいはい、承りました」
あまり酒場でするものではないだろうクレイの注文に、笑って椋は応じた。
宮廷直属第八騎士団「リヒテル」の第六位階騎士クレイトーン・オルヴァ。彼はれっきとした貴族であり騎士だが、椋は口調もぞんざいに、名前も呼び捨てる。
下手にへりくだられるのはむしろ嫌いだ、家名も好きではない。
だから椋が喋りやすい口調で、呼びやすい名で呼べ。あの後ふたたびクラリオンを訪れたクレイに、そう命令されてしまったのが理由だ。
――それってつまり、お友達になりましょうってことでいいの?
何となく聞いてしまった椋に、クレイはその硬派を投げ捨てる勢いでぽかんと口を開けた。
「なあ、クレイ」
「なんだ?」
椋が「お礼」として出した条件に忠実に、三日と置かず、クレイはクラリオンを訪れてくれている。
硬派でとっつきづらそうな見かけ通り、彼は非常にまじめで誠実な男だった。随分物腰が落ち着いているので年上かと思ったら、自分より三つも下だと聞いてひそかに椋は落ち込んだ。
まったく世の中は不条理だ。思いつつ、ものを作る手を止めずに椋は続けた。
「おまえが初めて俺に会いに来た日、西でも魔物が出て、結構ひどいことになったって話。あれ、本当か?」
「ああ」
「喋っちゃいけないならこれ以上は聞かないけど、おまえが疲れてるのもその関係なのか?」
「別にいい。そうだ。俺が所属する第八騎士団は今、ほぼ団員総出で調査にあたっている状態だからな」
「なるほど」
頷く。もう少し詳しい話を知りたい気もしたが、大っぴらに聞くのも何となくはばかられた。そもそもが楽しい内容ではないのだ。
ラグメイノ【喰竜】級が西区画に現れたのは、こちらとほぼ同時のこと。しかしあちらには、クレイやカリアのように、その場に偶然居合わせた凄腕はいなかった。
通報を受けて騎士団が到着したときには、一帯はかなりひどいことになっていたらしい。建物はすべてめちゃくちゃに壊され、何人もの市民が食われていた。騒ぎが終わるころには、死者・行方不明者は数十名単位にまで膨れ上がったという。
ぞっとする。もしもこいつが、そしてカリアがあのとき、ここにいてくれなかったら。
寒気を覚えて腕をさすろうとした瞬間、目の端でぐらりと何かが大きく傾いだ。
「悪いクレイ、ちょっと」
「リョウ?」
椋の目線の先では、ひとりの店員が壁に手をついていた。少し暗めの照明の下でも、明らかにその顔色は白かった。
いぶかしげなクレイの声を後ろに、コップに一杯水をくんで、椋は厨房を抜けた。まだ手をついたその場所から動かずうつむいたままでいる先輩に、椋は声をかける。
「ユディさん」
同時に水を差し出すと、ゆるりと彼女は顔をあげた。
改めて近くで見る彼女の顔色は紙のように白い。見返してくる目には力がなく、どんな相手にも引かずに情報の売買をする、いつもの彼女の姿はない。ここで働き始めてすぐ、酔っぱらった客に妙なイチャモンをつけられた椋をさらりとかばった、ついでとでも言わんばかりに高値で自分の情報を買わせた豪胆なさまは、今の彼女からは到底想像できない。
思わず眉を寄せる椋に、彼女は苦笑した。
「あ、っはは、ごめんリョウ。カッコ悪いとこ見られちゃったね」
「謝らないでください。大丈夫ですか? もし何か途中なら、俺でできることなら代わります」
「あー、ならリョウ、悪い。俺の客の注文ちょっと頼むわ」
「キエラ」
階段のほうから違う声がかかる。顔を向けると同じように白い顔をした同僚、キエラが何か堪えるように目許を押さえていた。
差し出したままになっていた手がふと軽くなる。椋の手からコップを取ったユディは、薬か何か見るような顔で手のうちを眺め、ふいっと一気にあおった。
「ユディさん」
「ありがとう、大丈夫だよリョウ。キエラのほうに行ってやって。私のほうはとりあえず一段落はしたから」
「そんな紙みたいな顔色で言われても説得力ないですよ。ちゃんと休んで、奥で何か食べてきてください」
「わかったわかった。リョウ、そんな怖い顔しなくてもいいでしょう……キエラ、自分で動ける?」
「何とか。悪いリョウ、本当に頼んでいいか?」
「いいよ。二階の七号室だったよな?」
「ああ。あと少しで仕上がるはずだから」
うなずいて見せると、揃って顔色の悪い二人がよろよろと奥に消えていく。
思わず椋はため息をついた。どうも嫌な感覚がする。彼女らふたりに限った話ではなく、このようなやり取りが、ここ数日明らかに増えていた。
椋自身は健康そのものなのが、もはや逆に申し訳なくなってくるレベルだった。
「もういいのか?」
「ああ。ごめんなクレイ、話の途中で」
「べつに構わないが」
厨房に声をかけ、頼まれた分の仕事も階段一往復とともに終えて自分の定位置に戻る。
クレイはなぜか店員たち用の控室がある方向、先ほどユディとキエラが消えていったほうを見ていた。その目に複雑な光を見て、また、なんとも嫌な感覚を抱く。
椋の正しさを証明するように、ぽつりとクレイはつぶやいた。
「こちらもか」
確信と諦念が奇妙に混ざったような声だった。
ぞわりと腕に鳥肌が立つ。ぐう、と喉の奥で妙な音がした。先ほどの二人と話したときよりも、もっと、感覚がひどく不快に舌に苦い。
声の波立ちを、必死で抑えた。
言葉が喉に引っかかる感覚がとてつもなく嫌だった。
「……何の話だよ」
「おまえが先ほど、俺に聞いてきた話だ」
クレイの声はただ静かだ。緑色の目は、大きな感情の起伏なく椋を見据えている。
調査に当たっているという騎士は言った。
「明日、祈道士がこちらに来るだろう」
「なんで知ってるんだ?」
祈道士。椋が絶対になれないもののひとつ。
祈道士の使用する魔術、神霊術は、この国の国教でもあるメルヴェ教と密接に関係している。基本的に祈道士は、メルヴェ教の関係者なのだそうだ。
このアンブルトリアにも、大きな教会がひとつ、小さな礼拝堂はよく見ると結構あちこちにある。
ここ最近は、祈道士が訪れる予定の日以外にも人の出入りが絶えないという。予約も常に定員オーバーしているらしい。
理由は、
「特例でその申請を通したのはラピリシア閣下だ」
「え?」
「西区画、ルーロヴィットの事態が深刻だというのが理由だ。あちらでは既に死者も出ているとなれば、教会とて黙ってはいられないだろうということらしい」
「……ちょっと待て」
ぎしりと嫌な音を立てて思考が軋んだ。クレイの言葉の中には、絶対に聞き流せない内容がいくつも含まれていた。
一昨日、街の人たちが連名で、東区画の住民全体への治癒願いを提出したという。
願いは聞き届けられた。明日の午後、なんとかいう名前の大きな時計がある広場に祈道士が複数名派遣され、治癒に当たることになるというお達しがあった。
かなり早いと、みんなは驚きながらも喜んでいた。ありがたい、これでもう大丈夫だと、一様にほっとした表情を浮かべていた。
ほっとするほどに、だれもが生活に支障をきたし始めていた。
「死者が出てる?」
「そうだ」
「ああいう症状が、出た人の中に、ってことか」
「そうだ」
返ってくるのは無情な肯定。椋はぐっと唇を噛んだ。
今、この王都アンブルトリア東区画「エルサリア」の住民たちは「ある症状」に苦しめられている。クラリオンの店員たちも、例外はほぼいない。
そしてクレイの言葉を借りるなら、西区画「ルーロヴィット」でも同じような、いや、ここよりもっと深刻な事態が起きている。
立ちくらみ、めまいがする。足がふらつく。以前は平気だった距離が歩けない。
すぐに疲れてしまう。食欲がない、何となく元気がない、体がだるい。
症状の重症度には個人差があり、本当にひどい人はもうベッドから全く動けなくなってしまっているらしい。人々の仕事は滞り、今まで当たり前のように回っていたことも回らなくなってくる。
理由は分からない。原因も分からない。発症に老若男女の別もない。、
ふと、向かいのテーブルについている子供と目が合った。楽しそうに手を振ってくる彼に、曖昧に笑って手を振り返してやる。
「酒場」であるはずのクラリオンで、ここ数日、頻繁に見られるようになってきている光景だった。
「おまえは何ともないのか」
「見た通りだよ。クレイは?」
「何もない」
クレイは、疲れた顔で首を横に振った。ただ疲れているだけ、と言いたいらしかった。
カリアが守ってくれたんだろうか――あの日を境に姿を見せなくなった、ひとりの少女を改めて椋は思った。「特例」を通したのが彼女だとも、クレイは先ほど言った。
椋は、このあたりではほとんど唯一の例外だった。同じような状況にあったクレイも、ただ疲れているだけで、症状は出ていない。発症していない。休息も、何の治療も必要としていない。
椋の体は今日も、特に何の不調を訴えることもなく動く。一方で、毎日顔を合わせて一緒に働いている人たちは、確実に日一日と症状を重くしていく。
癒しを、みんなが希求していた。治ることを望んでいた。椋にできるのは、少し仕事を休む間を作ってやるくらいだった。
考える椋の目の端で、またひとり、一瞬だけ足元がおぼつかなくなる。
ぱっと目線を向けた瞬間、ばつの悪そうな顔と目が合った。
「なんでだ?」
気づけば声に出していた。
訝るような緑の目に、続く言葉が零れ落ちる。
「東と、西で、変な病気が起きて。病気になってるのは、魔物があのとき、出たところの人たちで」
なのに誰も、――俺は何もできない。
当たり前のように己の中に落ちた帰結に、椋は驚いた。驚きながら今更納得した。ああそうか、俺は、そうだ、嫌なんだ。ただ、こうしているだけなのが。馬鹿みたいに無力なのが。
あの日、あの昼にも思い知ったことだ。
治せる道にいたはずだ、確かに立っていたはずだ。医者になるって、とっくの昔に決めてそういう道を進んでいた。
なのに、不完全なままいきなり知らない場所に放り出された。椋自身にある知識は穴だらけでかけらの確認も更新もできず、結局、誰にもまともに何もできない。
不条理が腹立たしかった。みんなが願う、施される癒しを待つしかできないのが、不甲斐無くて仕方がなかった。
わからない。なにもできない。
自分はただ一人なんともないのに、悔しい。