7. カリアという少女
カリアスリュート・アイゼンシュレイム・ラピリシア。
特別であることを宿命づけられた少女にとって、戦は必然であり、当然であった。
彼女の宿す血が、運命が、そうであることを常に強いた。いつ、いかなるときも「そう」でなければ、彼女は、まずその名を持つことにすら懐疑を持たれた。自身の存在することすら、ときには危ぶまれた。
強く在らなければ、何にも負けない、屈しない、――なにからも絶対に守れるような。
彼女は高潔であった。ひたむきであった。その宿命を、組み付く鎖を背負うに足る稀有の素質と、常に驕らず努力を怠らぬ才能とを持ち合わせていた。
彼女にとっての強さとは、剣であり、盾でありおのれの存在意義であった。その身に色彩として宿す、金と銀の焔、そのものであった。
手にする力を駆使することは、彼女の呼吸にも等しかった。力はある。確かにある。使え、役立てろと命じられる。国への忠誠を、絶対の存在を、刻み付けるために、これまでも何度も、焔をふるってきた。
それでいいと思っていたし、さしたる不満や不都合もなかった。
思いだせる限りの彼女の過去は、決して「すべて」恵まれているわけではない。しかし同時に、今手にする品の一つでも示せるように、一様に不幸なわけでもない。
少女はソファの背もたれに身を沈める。わずかにきしむ音もさせずに、当然のように絶妙の反発でそれは彼女の体を受け止める。
磨きぬかれた執務机は、最高級の黒檀が惜しみなく使われた一級品。手を伸ばせばすぐ届く位置に置かれた万年筆は、真紅の漆に希少な夜光貝の貝殻を砕きこんだ逸品で、書き心地もよく非常に軽い。身に着ける黒と銀と薄紅を基調にした制服も、位階を持たない騎士や魔術師たちの支給品とは、まず素材から一線を画している。すべてを己のものとする彼女の手は、……まだ、彼女自身から見れば随分小さい。
仰ぐ先には見慣れた天井があった。あの場所と比べれば随分と低かった。
しみなどない。珍妙な形のそれを、勝手に顔に見立てて笑いあうこともない。
ぽつり。
思考に小さく、黒が生じる。
「……下」
カリアは、決して完璧ではなかった。
若輩者という言葉は、事実だった。足りないものは多く、得ているものはまだあまりにも少なかった。
だからこそ、今も彼女は安泰ではない。「ラピリシア」および「アイゼンシュレイム」、ふたつの大きな肩書きは、今も少なくない輩から狙われつづけている。
彼女の世界は常に、良くも悪くも分かりやすかった。
すべては二つに一つだった。敵か味方か。守るべきものか否か。己に益を、あるいは害をもたらすものであるか。目標への最短距離を描くものであるか、達成を遠ざけるものであるか――。
あるのは謀略、打算だけだった。感情はいらなかった。
常に彼女の周囲の何にも、二者択一はついて回った。そんな生き方しか、彼女は知らなかった。
どこにでも転がっている、しがない一貴族の生きざまである。非凡と言われながらもどこかひどく凡庸で、無感情で、起伏の存在しない道。
好きも嫌いも感情もなく、ただ淡々とそう事実として、彼女はずっと考えていた。
あの不可思議な黒と、邂逅を果たすまでは。
「……閣下」
――これからも俺は、きみをカリア、って呼び捨てにしていいの?
言葉がひびく。変わらない瞳のまっすぐな黒が、カリアに自然に笑う。
告げても、何も変わらなかった。あったのはおそれでも畏怖でもなく、ただのカリアを見るまっさらな黒の瞳だった。
カリアより六つ年上だという彼は、そもそも出会い頭からいろいろとおかしかった。
どこにもいたくなかった夜。もともとあまり何もない彼女が、必死で作りかけたものを、またひとつ失ってしまった夜だった。
守ろうとしたものを、またあと少しのところで手から取りこぼしてしまった日だった。気が付いた時には、もう、何も取り返しがつかなかった。
だからあの日、カリアは逃げた。彼女を彼女と知る誰の目も声も嫌だった。
憐憫も嘲笑も、追悼、哀惜の一言すら耳にするのが苦痛で仕方なかった。護衛の目をすべてくらませた。雨でも降っていればよかったものを、空は打ちひしがれる彼女をあざわらうような、満天の星空だった。
放浪はどれだけの時間だったのか、いまもきちんとはわからない。
やがて疲弊した彼女の目に、最初に文字として入ってきたのが、あの店の名前を掲げた看板だった。
やわらかいひかりに引かれるように、さまざまに摩耗した彼女は店内に足を踏み入れたのだった。
「……様」
その場所の喧騒は他人のものだった。そっと紛れ込んで隅で存在を薄めてしまえば、笑いたくなるほど簡単にカリアはひとりになれた。
肩書も地位も名誉もなにもない、ただの無力な女が一人そこにいるだけだった。楽しそうな声はどこまでも彼女とは縁遠いものであった。分かり切っていた。なのに同時に、どうしてここまで遠いのだろう、とも、酒精どころか水すら入らない頭でぼんやりと考えた。
ちがうもの。縁のないもの。守るべき、であって、己がその中に入ることは決してないもの。
ゆるゆると落ちていくような思考を、ふいに破ったのが、そして。
「カリアお嬢様」
「っ!?」
そうではない声に、反射的に彼女は顔をあげた。
くろではなく、見慣れた深海色の瞳が、眼鏡の奥から静かに慮るような光をのせて彼女を見ていた。
「ニース」
「どうなされましたか。随分と幸せそうなお顔をしておられましたが」
それはカリアが生まれてこのかた、確実に一番多く声を聴いてきた相手だった。
今は第四騎士団の制服を身にまとう彼の名はニエストライ・フォゼット、ニースという。カリアの教育係、専属執事を務める男であり、この第四魔術師団「シーラック」の副長、カリアの補佐役でもあった。
驚く彼女に対して、彼の瞳はどこまでも静かだった。静かだが、少し面白がっているような含みも見えた。
惚けてしまった以上何も言えず、カリアは秀麗な眉を寄せた。幸せそうとはどういうことだ、幸せそうとは。
「別に何も変わりはしないわ」
知らず声は、どこかむすくれたもののようになった。
そう、変わらなかった。あんなことがあっても、この手の焔を知っても何も、彼は変わらなかった。
カリアの背負うものを、その片鱗だけとはいえ確かに伝えた。灰一かけらも残さず、魔物を屠る姿を見せた。
それでも彼は変わらなかった。驚いてはいたけれど、最後にはいつもと同じ顔で笑ってくれた。
すべてを終えたカリアが振り向いた先で、彼はドアを開きひょこりと頭を出す。何を言えば、何と声をかければ。迷うカリアに、なぜか彼はちょっと微妙な顔をして、でも、最後には笑った。笑ってひらひらと手を振って、口の動きだけで彼女へと言葉を伝えてこようとした。
思い返すだけでも笑ってしまう。
どうしてと、聞いてみてしまいたくなる。
「そうでしょうか?」
「そうよ。……おかしかったわ、あのひと。なにからなにまでぜんぶ……知っていたつもりだったけれど、全然、足りなかった」
あのときからずっと同じ。
隅っこの、存在を消していたはずのカリアになぜか彼は気づいた。試作品だから、なんて言い訳で、酒場にはおおよそ相応しくない、あまくてやわらかい飲み物をカリアに持ってきた。ただ、彼女の顔を上げさせるだけのために、温度を差し出した。
やさしかった。ばかみたいにそれだけしかなかった。
とうの昔に焼き切ったと思っていた目の奥が、少しだけ熱くなる気がしたくらいだった。お礼、なんて名分を自分に言い聞かせながら、さらにもう一度、二度と、足を向けてしまった。
そうやって名前を知った。おしゃべりなわけではない、突然びっくりするくらいに物を知らない。猫背気味の背中を他の従業員によく叩かれていて、口では文句を言いながらも、彼はそれを受け容れていた。
この国での過去が、なにもないひと。
ある日突然、放り出されるようにして現れた、この近辺ではほとんど見ない黒髪黒目の青年。
「お嬢様」
「なに?」
「正当な理由はあれど、あなたは一度、あの場でそのお姿を見せてしまわれました。これまでのようには、私も、お目こぼしを続けさせていただくわけにはゆきません」
呼ばれて尋ねれば、静かに目の前の男は事実を述べた。
カリアは苦笑した。幸せで、あたたかいおままごとの終わり。
自分自身の立ち位置と周囲のすべき動きを考えれば、これでも本当に随分長く続いたほうだ。
「わかってる。今までが異常だった、というより、あなたもみんなも、そろって私に甘すぎるのよ」
「自覚がおありのようで何よりです。なればこそ、しばらくはお控えください、お嬢様。それこそ、あの方を大切に思われるのであれば、なおさらです」
「……なにがあったの?」
ニースの声がわずか低くなる。隠そうとしない不穏をはらむ。
思わず問いかけた言葉を、首を振ってカリアは言い直した。
「いえ、違うわね。どうして「何もなかった」の?」
齢十七にして、大陸屈指の焔使いとも呼ばれる少女は己の補佐役へ問う。
彼女があのとき何をしたのか、彼ならば過たず理解していると確信しているからこその言葉だった。
ラグメイノ【喰竜】級を討つべく爆散させた焔に、カリアは、ある特殊な追跡術式を組み込んだ。
術式構築のための時間が十分ではなかったため、追跡能力はそこそこ程度だ。しかしそれでも、第四位階の騎士および魔術師くらいの身元は割れる力をあのときのカリアは込めた。第四位階と言えば、飛空能力、および前段階よりさらに五倍の膂力を身につけた竜である飛竜とも、多対一でならなんとかやりあえる程度の力量をもつ者たちが所属する位階である。
だが、結果として彼女の焔は何も教えなかった。何も掬わなかった。
言いかえてみれば、あの何の前触れもない魔物の襲来は、つまり。
「今のところはまだ何とも。ですが、状況は、当初の我々が考えていたよりも深刻であるようです」
相当の力量をもった人物による「裏」が存在するものだ、ということに他ならない。
随分時期が悪い、と、思わずカリアはひとつため息を吐いた。いや、時期も計算の上か。この国の頂点にしてすべての礎を支える絶対者、エクストリー国王アノイロクス・フォセラアーヴァ・ドライツ・エクストリーはいま、隣国ノ・ヴェレ上層部との会合のため不在なのだ。
力あるものは、無論、国内に他にもいる。カリアもこのニースも、それと数えられるであろう。
けれど「殲魔」の光を宿す王に、その剣の一振りで千、万の魔を屠り呪縛を砕く力を持つ絶対者に。比肩するものなどそういない。
「忙しくなりそうですね」
「そうね。……あのひとは、」
きっと、あれくらいの魔物を目にするのも初めてだっただろう。カリアのようなものたちが相対すべきモノなど、話のかけらも知らないかもしれない。
妙に抜けていて、変に世間知らずで。立ち居振る舞い、言動には、確かな理性があって。
馬鹿みたいにお人よしで、やさしくて、どこかで何かをひどく諦めていて、諦めているという事実に、抗いたいような苦しげな光が時々、不思議なくろい瞳によぎる。
リョウ・ミナセ。ことなるひびきを帯びた名前の男。カリアたちより薄い顔立ちの、たぶんそれなりに整っているのに、格好いいと言うにはどうにも抜けている印象を持たせる青年。
なんにもないよと、あるとき彼は静かに言った。
なのにどうしてだろう、……確かに彼はなにもないはずなのに、どうして、こんなにカリアの中には違和感しかない。
「お嬢様?」
「ニース。ごめんなさい、やっぱり無理だわ」
「酒場通いを止める気はないと?」
「ええ」
なんにもないという彼が、何かを始めるような、なにか、はじまるような、そんな感覚がする。
街の片隅にある小さな潰れかけの店、その店主に拾われ、彼は身を寄せているという。最初に俺を拾ってくれたのはあっちだけど、なんか今は半分くらい、俺があいつを養ってる気がするよ。言って、笑っていた姿を思い返す。
めずらしい黒髪と揃いの黒眼の、不思議な青年リョウ・ミナセ。
彼の抱える真実は、本人以外、今は誰もきっと、知らない。
「分かってるわ、ひどいバカ言ってるって。でも」
「どうぞご随意に。そのようなあなたを、止めるすべを私は持ち合わせておりませんから」
あまりにあっさり、ニースは肯定を返してくる。思わず二度三度と彼の顔を見るが、冗談を言うような調子でもなければ、場面でもない。
つい、ぽつりとカリアは零した。
「……とめないの?」
「ここで私が止めたところで、止まるようなお嬢様であれば私も苦労はしません」
「何よその言い方」
「さあ」
ただ静かにニースは笑った。
今はまだ、ひそやかな予兆だけが薄く薄く、けれど確かにそこにあった。