6. 白焔の舞う
「ラグメイノ【喰竜】級…!?」
「おい、集中しろ! 術式が壊れたらこの店、俺たちごと奴らにぶっ壊されんぞ!」
二人に続いて降りた先では、とんでもないことになっていた。
何が見えているのかがまずよく分からない。何だあれ、なんだあれ。びっちり店のガラスに張り付いた、しかもなぜかぎょろりと動いたそれと、瞬間椋は「目が合った」。
「魔、物」
思わず椋は固唾を呑んだ。
この世界にいる、倒すべきもの、ここに集まるような人たちの討伐対象。その外見および眼、に当たる部分の色により、おおまかなランク分けがなされている。
周りの人たちいわく、あれはラグメイノ【喰竜】級、らしい。濁った青色の眼を持った、人はおろか竜すら喰らう、一度現れてしまえば、村どころかそれなりの規模の街が一晩も持たずに滅びるレベルの強さを持った魔物。
あえて召喚でもしなければ、こんな国の中枢部には、決して現れるはずもないはずの魔物。
以前ヘイから与えられた知識が、椋の思考を綺麗に上滑りしていく。
魔物それ自体を目にするのは初めてではないが、……しかし。
「久々に見るけど、相変わらず本当に上から下まで全部気持ち悪いわね」
「俺はむしろ、あれ見てわりと平然としてるカリアの方がある意味不気味なんだけど」
全身眼だらけで、巨大な赤い穴のような口は現在視界に入るだけでも三つ。腕やら足やらが全身から筋骨隆々縦横無尽に生えまくって、その爪と牙ばかりが鋭く悪目立ちする。「おぞましい」という形容詞の権化のような化け物を前に、傍らの少女はあまりにけろっとしていた。
あんまりなまでのあっさり具合に、椋の思考の上滑りも止まってしまった。むしろ完全なる混乱の中にある酒場内をよそに、泡食った態度を少しでも取った自分がおかしいのでは、とさえ思えてくる……いやさすがにそれは違うだろう、だって誰もかれも顔色が悪い。緊張して、怖がっている人がたくさんいる。例外は確実にこっちである。
思わず感満載の椋のツッコミに、カリアにっこり笑った。
「ラグメイノ【喰竜】級程度に尻込みする魔術師団団長なんて、全然恰好つかないじゃない」
「えー……?」
助けを求めてもう一人へと椋は視線をやる。あえて召喚の魔術を使わなければ現れないくらい、強い魔物なんじゃないのか、外のあれ。
だが無情にも、クレイは椋の訴えを理解してくれなかったらしい。
若干不思議そうに椋の視線に首をかしげた後、真剣そのものの表情で青年はカリアへと進言した。
「しかし閣下。確かに閣下のお力をもってすれば、奴の討伐自体はそう難しいものではないと私も考えますが」
「そうね。防護結界の強度を見るに、あれとまともに正面から戦える力を持っている人間は今ここにはいないようだし、私とあなたの二人じゃ、周囲への影響なんかを考えると無傷での撃破は厳しいかしらね」
またさらっと恐ろしいことを言った、この美少女。そもそもこのクレイだって、カリアの自信、それ自体は全然否定していない。ついでに言えば現在の椋は、ふたりの言う「強さ」の基準がさっぱり分からなくなっていた。
ラグメイノ【喰竜】級がその一撃で容易に倒せてしまう「竜」とは、まだ若いが故に空を飛ぶことはできないが、それでも優に十メートルを越える巨躯に、幹の太さが五メートルを越えるような木でもその体当たり一発でへし折る力と、魔術も簡単には通さない強固なうろこに全身を包まれた生き物だ。ヘイの竜狩りに連れていかれたことのある椋は、その強さを、怖さを身をもって知っている。
それを食らうようなあの化け物を、無傷で倒せるかなあなどとのんびり話しているのだ、目の前の二人は。
あいつの「メインキャラ」だから? わずかに考えた事柄は、今はとりあえず無視しておくことにする。
「そんなに心配しなくても大丈夫よ、リョウ」
「え」
混乱しきりの椋に、カリアは気負いのない表情で笑った。金のひとみには、揺らがぬ自信があった。
魔術の防護壁が軋む音をバックに、彼女は続ける。
「すぐに増援が来るわ。凄く頼もしい増援がね」
「閣下?」
「より正確に言うならば、今までずっと私のダメな行動を無視してくれてたお目付役が、だけど」
――瞬間。
猛烈な轟音が響く。魔術で何重にも守られているはずの酒場内まで容赦なくびりびりと空間が揺れる。
思わず耳を塞ぎながら見やった先では、ラグメイノ【喰竜】級が、文字通り貼り付いていたその場から吹っ飛んでいた。
「……えええぇえ?」
何が起きたのか全く分からない。素っ頓狂な声をあげた椋を、しかし誰も咎めなかった。むしろ周囲の人間は、あまりの光景に声すら失っていた。
くすりと、どこか楽しげにカリアが隣で笑う。彼女が指さすほうに目線を動かせば、足元を完全に薄青い氷漬けにされたラグメイノ【喰竜】級と、その前に立つ、人影がひとつ。
「あなたにしては遅かったわね。ニース」
ほぼ唯一この場で驚かない少女は、静かにうたうようにつぶやいたかと思うと足を踏み出す。
そして次には軽やかに、カリアは外へと向かって跳躍した。
「あ、」
跳躍しその身体が壁へと触れる瞬間、彼女の身体は当然のように、魔術を含むすべての壁をすり抜けた。瞬き一つの後には既に、カリアは、その人影のすぐ横にまっすぐ立っている。
ざわりと、それまでとは少し違うざわめきがクラリオンを支配した。そのざわめきをすり抜けて、クレイもまた人の山を越えて出口に向かっていく。
あの髪と目の色、まさか、【しろがねの地焔遣い】? いやそんな馬鹿な、大貴族様が何でこんな場所に来るんだ。
でもよ、見ろよあの銀と金色、確かに噂通りの、すげぇ色じゃねえか――?
「カリア」
距離もあれば壁もある。届かない、分かり切っている。しかし椋は、彼女の名前を呼んだ。
そしてまるで呼び声に応えるように、彼女はわずか、こちらを振り向いた。ちらりとやさしく笑った表情を、確かにそのとき椋は見た。
びきりと、何かが大きくひび割れる音がした。彼女は向き直る、再度それへ相対する。表情は、もう、わからない。
だいじょうぶ、心配しないで、守るから。彼女は笑った。伝えようとする言葉のかわりのように。
ばりばりと、ひび割れる音が強さを増していく。ぎしぎし、関節がイカれているような音も聞こえてくる。呻く声も、聞こえる気がする。氷漬け程度では、あのラグメイノ【喰竜】級は死んでくれないらしい。
執事服の男が、右腕を掲げた。
「――――」
術式を構築する詠唱の声は、酒場のうちからは聞こえない。
この世を支配する「魔術」とは、ざっくり言うと「自身の魔力を用いた、世界の改変」なのだという。己の意志と身体に宿る魔力により、世界へ干渉し世界を変幻する術。意志で、変転を起こす法。
そして魔術は必ず、「術式」と呼ばれる力持つ文言を組み立て、己の持つイメージと魔力をその術式へと流し込むことによって発動する。
この文言は「詠唱」として実際に声にすることで、さらに大きく確実なかたちを取れる、らしい。魔力とイメージが十分ならば、声として術式を発する過程は省略することができるとも聞いた。
だから魔具師なんてものが存在できるんだ、ヘイは言っていた。魔術の発動に必要なのは、術式と魔力のふたつ。これら条件さえ満たせれば、使用者が術式を通じて魔力を供給する、という手順を踏まずとも、魔術は発動できるのだ。
だからこそヘイは今、誰もが試したこともなかった、らしい、とある魔具を新たに作り出そうと日々思考錯誤を繰り返している。
色々な意味で、あまりに全世界的に、たぶん相当に危険なものを。
「すみません、ちょっとどいて、……すみませんっ!」
窓際に群がる冒険者たちのむさくるしい山を何とか乗り越え、何とか窓に近い場所に辿りつく。窓最前列にいるのは、現在この場所に張られた防護壁を支える人々だ。無魔である椋がそこまで掻きわける訳にはいかない。
窓の外、隔たれた向こう側でラグメイノ【喰竜】級が声を上げる。咆哮、と呼ぶのも躊躇われるような、あまりにおぞましい不協和音だった。
窓越しに見える外の景色は、まさに「異世界」だった。フィクションの中にしかなかったはずのものが、今、質量を、音を、振動、衝撃をもって椋の目の前にあった。
執事服の男が手のひらを閃かせる。光が消え去るより前、その光の奔流をひとつにより集め収束させ、組み上げることによって完成するものがある。
魔物が再度咆哮した瞬間、透明な薄青色の氷刃が放たれた。咆哮そのものの威力か、それとも何らかの別の力があるのか、びきびきと地面、壁面がいびつにひび割れていく。ものが砕けていく空間の中で、巨大な刃は、微塵も欠けずに真っ直ぐに飛ぶ。
未だ巨大な氷に捕われたままのラグメイノ【喰竜】級に、それを避ける手段はなかった。さらなる咆哮、がむしゃらに振り回される複数の腕。刃は、足掻きごと断ち切るように、過たずその不気味な身体の中心部に突き刺さった。
うぐぅおおおおおおぁあああああああああ、と。
魔物の苦悶の絶叫は、魔術による何重もの防護壁を隔ててなお、びりびりと不気味に椋たちの鼓膜を打った。
「【浄化の白金、散華の銀】」
そして、そんなおぞましい、不気味でしかない音を掃うように。
凛と澄みきる少女の声が、歌うように幾重にも重なって大気に響き渡っていく。
「―――【焔と渦巻き、貫きひらけ】!」
ごう、と。
彼女が言葉を紡ぎ終わると同時、白金と銀の二色の焔が爆発した。
噴きあがる焔は勢いを増し、互いにからみ、上へ上へと昇っていく。もがき足掻き、醜く身をよじるラグメイノ【喰竜】級を、容赦なく跡形もなく焔は燃消させていく。
すべてが終わるまでの時間は果たしてどれくらいだったのか、椋には分からなかった。
焔に消えていく魔物を見据える横顔だけが、強く、視界に焼きついた。