4. 邂逅①
「今日は随分ご機嫌なのね、リョウ」
「えっ?」
今日も今日とて「指定席」で、カウンターに肘をついた美少女が不意に笑った。
思わず顔を上げた椋と、ひどく楽しげに目を細めたカリアの視線が合う。言葉を反芻すべく、一度二度と椋は瞬きをした。
随分ご機嫌なのね。今彼の目の前で笑っている彼女は、そう言った。
「リョウ、お鍋から変な音がしてるわよ」
「うわっ!」
彼女の指摘に意識が戻る。水気のなくなった鍋が不穏な音を立てていた。
今日もかよ! 慌てて火を消し、中身をすべて皿にあける。見たところ何とか焦げる寸前で火は消せたようだが、下手にそのまま放置すると余熱で焦げるのだ。
肩を落としつつ、近場にいたフロア担当を軽く手を挙げて呼ぶ。すぐにこちらへやってきた彼へ複数の皿を託し、はあ、と椋は大きく一つため息をついた。
「そんなに良いことがあったのね、あなた」
「ははは……うん、まあ、ね」
苦笑するしかない。確かに久々に、気持ちが晴れ晴れしていた。
もちろん昼の一件が理由だ。ああ、何の理屈を並べ立てたところで、結局は「それ」なのだ、「そこ」しかないのだ。再確認せざるを得ない。
簡単に捨てられるものじゃない。
完全に叶う直前に、非常に理不尽に木っ端微塵に砕け散った夢なんてものは。
「ねえ、リョウ。ね、何があったか聞いてもいい?」
「ん、何があった、というか、なにもなかったんだけど」
予想通りの質問が来る。何と返したものかと思う。
突然息苦しさで倒れかけた女の人がいた。過換気症候群をまず考えて、声掛けをしながら少しの間一緒にいて様子を見た。見立て通り彼女は自然に回復して、最後に、その「主人」と一緒に、椋にお礼を言ってくれた。
ああうん、無理だ。即座に椋は思った。まったく説明になっていない。ぜんぜん通じる気がしない。そもそもここでは「過換気」という言葉どころか、人体の構造だって仔細には解明されていないのだ。
従って椋が言えるのは、事実を随分とあやふやにした一言だけである。
「そうだな。久々に、やりたかったことが本当に少しだけど、できたんだよ。たぶん」
「随分曖昧ね。教えてくれないの?」
「全然大したことじゃないんだよ。ちゃんと知ってれば、誰でもできるようなことしかしてない」
笑ってカリアへ応じつつ、フライパンの上、ふつふつと小さな穴が空き始めたそれをひょいと椋はひっくり返した。
今日の彼女へのおやつはパンケーキだ。主にその一件で買い出しにいつも以上の時間がかかってしまい、ちゃんとした何かを準備できる時間がなくなったためである。
椋の返答に、しかしなぜかカリアはやや不満げな声を発した。
「そうかしら」
「カリア?」
出来上がったパンケーキを皿の上にのせ、バターの小さな塊とはちみつ、ジャムの小瓶をつけて彼女の前へと出してやる。嬉しそうに、楽しげにカリアは目を細めた。
器用にナイフとフォークを使って出来たてのパンケーキを切り分けながら、平然とした口調で彼女は続けてきた。
「街の噂で聞いたんだけど、今日、街中で倒れた女性を助けた人がいたんですって」
「へー」
「しかももう少し詳しく聞いたら、その人物は若い男で、この辺りでは滅多に見ない黒髪黒眼だったそうよ」
「……カリア」
しれっとパンケーキを平らげていく目の前の美少女。確実に分かり切っていて、あえてこんな風に言っている。
なんだか馬鹿馬鹿しくなってきて、若干声を低めて椋は相手の名を呼んだ。
しかしそんな反応も想定内だったのか、カリアの表情はかわらない。
「いいじゃない。悪いことをしたならともかく、誰かを助けたことを隠す必要なんてないわ」
「や、だからほんとうに何もしてないんだって」
「あなたの言う何も、って、あんまりあてにならなそうよね」
「……はいはい。ほら、サービスでアイスつけるから、今日はこれで勘弁してよ」
「ふふ。やった」
営業終了後に自分が食べようと思っていたアイスを半分、冷蔵庫から出してパンケーキの皿に載せてやる。嬉しそうに、どこか幼い表情で笑う彼女に、椋もつられて笑ってしまった。
いつ見ても、彼女の顔はつくりものみたいに整っている。それぞれのパーツの大きさも形も配置も完璧で、ただ傍から見ているだけだと硬質的、無機的にさえ見える。
しかし椋手作りのおやつを前に、椋を相手にくだらない軽口をたたく彼女は、ただの非常にきれいなだけの女の子だった。いやまあ非常にきれいな、という時点で、若干普通ではないのか。
今から半月ほど前、初めて彼女と出会った日のことをまた思い出す。あのときのカリアはクラリオンの隅で、誰も何もを拒絶するように背を向けてうつむいていた。
精一杯に身を縮めて、誰からも何からも、自分の存在を消そうとするかのように。
「……どうしようもないよな、ホント」
「え?」
「いや。なんでもない」
一ヵ月半。違う場所にある程度慣れることはできる時間、すべてを諦め或いは別の希望を見つけ出し、先へと進もうとするにはまだ短い。
そもそも椋は、ある「仮説」についての結論がまだ出せないままでいた。
「まったく違う」世界なのに、知っているような気がするものがある。聞いたことがある名前が複数ある。
だがすべてはまだ「気がする」程度でしかなく、はっきりしたことは何も言えない。
わからない。感情は、意志は変わりようもなく、けれど、それを向けるべき方向がわからない。
椋が次に移ろうとしたとき、カラン、と新たに音が鳴る。軽い調子のドアベルとともに、クラリオンのドアが開いた。
「――すまない。人を探しているんだが」
ほとんど同時に聞こえたのは、何となく聞き覚えがある低音だった。
既に酒場内には相応の数の客がおり、いつもと変わらぬどんちゃん騒ぎを繰り広げている。にも関わらず、その声は店の奥側にいる椋にもはっきり聞こえた。
目線を向ける先では、ドアの一番近くにいたアリスが応対を開始している。
何となく頬が赤いように見えるのは、気のせいにしておこう。彼氏いるんじゃなかったかあの子、こらこら。
「人探し、ですか? そのようなお話は伺っておりませんが」
「いや、俺はここに、依頼や会合に来たのではない。リョウという男が、ここにいると聞いたのでな」
ジャッと、適当量切り刻んだ野菜をフライパンへとぶちまける。本当に来た。しかも居場所を告げた当日に「ここ」を探し当てた。椋にとって、二重に予想外だった。
よくわからなそうなアリスの視線が椋に向く。「彼」もまた、彼女に倣うように椋のほうへ顔を向けた。手際良く料理を作り続ける椋の様子に、少し驚いたように眉をあげる。
なんだなんだ、新たな客人である彼と、指名された椋を中心に視線とざわめきの波がやってくる。好奇心のかたまりな酒場の常連たちの意識は、完全に椋たちへ向いている。
それなりの喧騒を保ちつつも、というのが変に器用である。
「こちらへどうぞ」
椋に否やがないのを見て、定型句とともに彼女が「彼」を案内しようとする。
だが、ひとりここで予想外な反応を示した人間がいた。
「え、っ」
その声にはどこか、悪戯がばれた子どものような響きがあった。明確な焦りと、それでも隠そうと必死に足掻くような声色。
カチン、とナイフとフォークを置く音がする。見ると、するりと流れるような仕草でカリアがスツールを降りていた。脱いでいたフードを被り直しマントの留め具を留め直し、どこか不自然な笑みを椋へ向ける。
「ご、めんなさいリョウ、このアイスは明日もらうことにするわ」
「え、……あの、カリア?」
「お金も明日、まとめてちゃんと払うから。絶対に踏み倒したりなんてしないわ、でも本当にごめんなさい、だから今日はこれで、」
失礼するわ、と。
最後までカリアの言葉が続くより前に、「彼」の声が椋の耳朶を打った。
「こんなところにいたのか。本当にここで働いていたんだ、な……」
「ええ。まさかこんなに早く来てくれるとは思ってなかったんで、驚きました。……あの、何か?」
さらりと平凡な言葉を返そうとして、止まった。妙なところで妙な場所に向かって、彼の視線は凍りついている。
フードとマントで全身を隠すようにして、フロアのすみっこに非常に所在なげに丸くなっている彼女、カリアの方へと向けられている。
「……なに、してんの? カリア」
「カリア?」
さっぱり意味が分からず彼女の名を呼ぶと、なぜか彼女自身より前に目前の青年が反応した。
彼の声に呼ばれる名に、びくりとカリアの肩が震える。手元と目前の光景とに意識を半々にするのも面倒になってくる。ひとつため息をついて、椋は自分の預かる厨房スペースの火を止めた。
まるで救いを求めるような、縋るような瞳をカリアは椋へと向けてくる。
もはやこの場の誰の一挙手一投足をも見守るべく、完全に誰もが沈黙してしまったクラリオンの中。
明らかな驚愕をにじませた彼の声が、どこか呆然と、別の名前を口にした。
「……ラピリシア、第四魔術師団長閣下?」