3. 一歩
「……よし、大体こんなもんか」
翌日、昼下がり。椋は夜の開店に備え、町中へおつかいに出ていた。
メモを片手に、買い忘れがないか確認する。荷物はヘイがくれたウエストポーチにすべて入れてあるので、傍から見ると今の椋は手ぶらだ。見た目はただの黒いウエストポーチなのに、空間を繋げる魔術がなんだのこうだので、五十メートル四方くらいのものは余裕で入るトンデモアイテムだ。
――いい加減、どォにかする気になったかよ。
ぼんやり歩いていると、どうしても昨日のヘイとのやりとりが頭を過る。終着点は結局、いつも有耶無耶になる。
どうして自分を売り込まない、その知識をきちんと役に立てるための道を自分で開け。
いつだってヘイは正論を言う。対する椋は、具体的な方法を提示できずにぐずつく。気持ちはいつだっていつまでもそこにしかないのに、どうすればいいのか、わからない。
情けないこと極まりない曖昧のまま、今日も逃げるように仕事に出てきてしまった。
ひとつため息をついて、椋は苦笑する。
「……どうするかな」
今の自分が、椋は好きではなかった。
ただの居候、厄介者。酒場の従業員として、それなりに食いつなげているが、それだけだ。以前と比較するまでもなく、大変に無為に停滞している。
これでもまだ、この世界に放りだされた当初よりはマシなのだ。ヘイがクラリオンに(半ば無理やり)椋を放り込んでくれていなければ、今でも椋はただの引きこもりニートだったかもしれない。
働くことは、嫌いではない。ありがたいことに、クラリオンの客は皆、基本的に気が良い。色々と不慣れで失敗も多い椋を、だいたい笑って許してくれる。
現在の椋は、確実に恵まれた環境にいる。
住むところがあって、仕事がある。同僚も客も、さらにはこの街の人たちも、皆、突然ぽっと現れた椋にも優しい。
しかし、どうしたところで椋の根っこは欠落していた。埋められるものはほかにはなかった。
一番大切なもの。何にも曲げようがなかったもの。もう曲がりようもないと、ある意味、安心しかけていたもの。
医者になりたいという、物心ついたときからの夢。しかし年を重ね、進学して、吐きそうな受験戦争を越えて、それは椋の「目標」になった。
なって、いたのだ。
こんなところにある日突然、放り出されてしまうまでは、確かに。
「……っと、」
ぐるぐると一人考えながら歩いていると、突然立ち止まった目の前の人にぶつかりそうになった。顔を上げて前を見ると、何だろうか、ちょっとした人だかりができている。
少し背伸びして覗き込むと、そこでは一人の女性とむくむくでかい体つきの男が言い争いをしていた。
言い争っている内容はよく聞き取れないが、どちらも相当にヒートアップしていそうだった。
「……おい、大丈夫か?」
やや怪訝な声が聞こえた。椋も眉を寄せる、相変わらず内容はわからないが、異変が起きたのは女性のほうだった。
興奮している、それは見て取れる。呼吸が徐々に小刻みに速くなっていく、ヒ、と、高くかすれてすぐ切れる声。それでも彼女は言葉をなにか続けようと肩をいからせ、だが、言葉は出なかった。
胸、みぞおちあたりを押さえて、ずるずるとその場に女性がくずおれる。
ぎょっと男性が目を見開き、そこで初めて人だかりに気づいて、さらにぎょっとした表情を浮かべる。一歩、二歩、じりじり下がったかと思うと、次には脱兎のごとく男はその場から逃げ出した。
あとには女性だけが残った。
苦しげに顔をゆがめてうずくまる彼女に、遠巻きに見物していた人々がざわつく。
どうしたんだよあの人、とりあえず誰か祈道士様を呼んできておくれよ、でもここからじゃ、教会にはどんなにも急いでも五分はかかるだろ……。
思わず椋は周囲を見回した。みんなやはり遠巻きに眺めているばかりで、輪の内側に入っていこうとする人はいなかった。誰か助けを呼びに行ったのか、それもわからない。だれも、そばに寄ろうとしない。
椋もそしてまた、そんなひとりでしかない。
考えた瞬間、反発するように、ぽろぽろと思考の内側で知識が零れだした。
――若い女性の呼吸困難、胸痛。他人と言い争っている途中で起きた。
――呼吸の回数が明らかに多い。2秒に1回はしていそうか? 顔色も悪い、けれど、唇の色は悪くなさそう。
ぴく、と椋の指先が動いた。
浮かんだものがあった。過去問や問題集で何度も見たことがある疾患だ。けれど決めつけてはいけない、ほかには、鑑別すべき疾患は? 当たり前のように、次々に浮かんで思考に落ちてくる。
どォにかする気になったかよ。皮肉な笑みが脳裏に浮かんだ。
そこまでタマ小さくする理由が、いったいどこにあるってんだよ?
「……っすみません、ごめんなさい、ちょっとっ」
ようやく上げることができた声は、ばかみたいに上ずって震えていた。
だが、それでも「違う音」だった。人垣が椋の目前でざわりと分かれていく。一気に視線が椋に集中する。弱気を片っ端から飲み下して、速足で椋は女性のもとに近寄った。
医学生ではあるが、椋はまだ「座学」でしか医学を学んでいない。
実際に患者の前に出た経験など、ほぼない。実習で同級生と一緒に、白衣を着て患者と向き合ったことはある。OSCE(Objective Structured Clinical Examination:医学生が臨床実習開始前に受ける試験のひとつで、技能、態度が一定の水準にあるかを審査する)にむけて、友人たちと互いを模擬患者にしてシミュレーションをしたことはある。
だが、それだけだ。実地に立った経験はない。一度もない。
むろん、そんなことを目の前の彼女が知る由もない。自ら声をあげた以上、言い訳にもできない。許してほしいなら、最初から声なんてあげるべきじゃない。
ぐっと奥歯を噛みしめる。わずかに椋は口角を上げる。笑って見えなくとも良い、ただ、自分に自信がないような、どうしようもなく情けない顔でなければ、それでいい。
すぐそばまで行くと、目の前にかかった影に気づいたのだろう、彼女は顔を上げた。
わずかに怪訝そうな顔をされる。
「……っ、だ、れ?」
「学生です。もしよければ、診せてもらってもいいですか?」
声が、体が震えていないことだけをとにかくまず椋は祈った。
嘘ではない。実際に椋は学生である。魔術学院のではなく、某大医学部の、という但し書きつきだが。
声がまともに出ないのだろう、小さく女性がうなずいた。勝気そうなキツめの細面は蒼白で、ちらりと見やった指先もへんに白い。
まずは「全体」を見る。手順を思い返しながら、また顔を出そうとする弱気を椋はぐっと呑んだ。
呼吸は変わらず速く浅い。しかし服の上から見えるような、明らかな左右の差はなさそうだ。はっきり見える怪我もなく、見える範囲の皮膚の異常もない。
少なくとも、言い争いがはじまった時点では彼女は元気、に見えていた。ひとりで街中を歩いているような女性が、何か呼吸器系の、重度の疾患があるとも考えづらい。
となれば、鑑別の上位としてあがってくる疾患は。
考えつつ、こちらを見やってくる彼女の視線に、にっこりと椋は笑顔を向けて見せた。
「大丈夫ですよ。ね」
ゆっくり、決して聞き取れなかったり、意味が通じなかったりすることのないように。
一語一語を丁寧に発音するように心がけつつ、絶対に驚かせないよう、そっと女性の手を握る。
力なく道の上に投げ出されていた手は、失われた色の通りにひんやり冷たかった。驚きと不安がないまぜになったような表情を向けてくる彼女の手を、自分のもう一方の手も添えて包み込むようにする。
さらに目をひらいた彼女から、視線をそらさずにもう一度同じ言葉を椋は口にした。
「大丈夫です。あなたは大丈夫」
「まじゅつ、がくいんの、がくせい、さん、?」
「ええ、そんなものです。……だから、大丈夫ですよ。もう大丈夫、安心して」
遠巻きに驚愕する人々のざわめきを、向けられてくる遠慮のない奇異と不審の視線を無視する。じっと見あげてくる視線に、揺らぎそうになる気持ちに何度でも蓋をする。
できる限り、落ち着いた態度と笑顔、穏やかな声だけを目前の患者さんへと向ける。今の椋ができる、全力で。背中に妙な汗がつたう感覚があるが、気にしない。気のせいだ。気のせいにしたい。
同時に椋の脳内に、かつて授業中、担当教員が実際に言っていたことがよみがえる。
――私ね、特急に乗ってるときに過換気の患者さんを診たことがあるんですけどね……
「……は、ふ……」
過換気症候群。過呼吸、と言い換えると、言葉としてはわかりやすくなるだろうか。
それが、現在の状況から、第一に椋が考えたものだった。
過呼吸と言えば「袋を口に当てさせ、その中の空気を吸わせる」という対処が頭に浮かぶ人もいるだろう。ドラマやマンガなどで、実際に行われているのを椋も見たことがある。
けれど実際は違うのだ。論理と実証に基づいた「正しい対応」は違うのだ。
理由も含めて、だからちゃんと覚えてね、講義の中で先生は言って笑っていた。
「……あったかい」
ふと、女性の表情がわずかに緩んだ。
両手で包み込んだ手が、わずかだが握り返してくる感覚があった。
先ほどよりも、徐々にだが呼吸が落ち着いてきていた。胸の上下する回数が減ってきている、顔色の悪さも収まってきているし、手の指にも少し、彼女の熱が戻って来たようにも思えた。
そう、その先生が実際にやったことというのは、患者の手を握って「大丈夫ですよ」と声をかけること。
それだけです。それだけでちゃんと、患者さんは回復したんですよ。と、彼は驚く学生たちを前に、朗らかに笑って言っていた。
「はい。大丈夫ですから」
だから椋も今、それにならってみたのだ。緊張を隠して張り付けた笑顔がそろそろ微妙にひきつって痛い。だが、止める気はない。
過呼吸、過換気症候群とは、特に若い女性に多い病気だ。
何らかの理由によって浅く速い呼吸が繰り返された結果、呼吸困難、手足や顔のしびれなどが生じるものである。原因はほとんどが心因性。よって、ほかに呼吸困難をおこすような理由がない場合、呼吸が普通にできるようになれば、自然に症状はよくなる。
現在、過換気症候群の治療としてのペーパーバック法、袋を口に当てて呼吸をさせる方法は基本的に推奨されていない。呼吸することで袋の中の酸素が消費されるため、やり続けていると今度は患者が酸欠に陥ってしまうというのが主な理由だ。
ふう、と、ひとつ大きく女性が息を吐いた。
「……ありがとう。もう大丈夫です。あの、」
「ルミラ!」
彼女がなにを言うより前に、鈴を鳴らすようなよく通る声が別のところから響いた。即座に女性が振り向く先から、人垣を割って一組の男女がこちらに向かってくる。
ふわふわした女の子と、腰に一振りの剣を下げた青年。
金髪碧眼の、いわゆる「お姫様のお忍び」風情のかわいらしい少女が、もう一度、心底心配そうに眉を下げて口を開いた。
「ルミラ、ひとりになってはだめって言ったじゃない。最近は調子がいいからって、過信はだめよ」
「申し訳ありません、お嬢様、若旦那様も」
発言からしてどうやら「主人のお迎え」のようだ。お嬢様と若旦那様、ということは、どこかの貴族のきょうだいかなにか、なのだろうか。
周囲の視線は、今は半分以上がそのご主人たちに向かった。白くてきゃしゃで可愛い女の子と、かっちりした雰囲気の浅黒い肌の青年。椋はそっと立ち上がり、どさくさに紛れて場から離れようとした。
が。
「待て。この人だかりだ、おまえがルミラの手当てをしてくれたのだろう」
静かだがよく通る声に呼び止められる。ぎくりと椋は肩を揺らした。
別に悪いことはなにもしていない、つもりだ。声にも、青年の表情にも、特に咎めるような調子はない。だが椋の行ったことは、とにかくまったく「この世界の常識」ではない。
椋が何を言うより前に、勢い込んで、ルミラと呼ばれた女がうなずいた。
「はい、若旦那様。今私がこうしていられるのも、その方のおかげです。魔術学院の学生さんであるそうですわ」
「え、あ、いやあの」
色々待ってほしい。椋は思いっきりどもった。椋のおかげもなにも、椋は事実、まったくなにもしていない。
言葉を否定する暇もなく、うん、青年のほうがうなずいた。まっすぐに椋を射貫く緑色の瞳は大変目力が強かった。
「名前は? 所属はどこだ。家人の受けた恩を、無碍にするわけにはいかない」
所属ってなんだ。魔術学院の何年生でクラスはどこでってそういう、というか今この人なんて言った。恩? 無碍にする?
だから何もしてない! 椋の頬は盛大に引き攣った。
「そんな、大袈裟な」
「いいえ! 大袈裟などではありません。本当にありがとうございました。あんなに苦しかったのに、もうどこも痛くないし、しびれてもいないんだもの」
否定しようとしても、即刻否定の否定が返される。その声があまりに嬉しそうで、心なしか女の子と青年もうれしげに見える。なんかもう、いいか、椋は毒気を抜かれて否定をあきらめた。
ふと男の方が苦笑する。
「そう畏まるな。俺たちはただ、おまえにこの礼を返したいだけだ」
「ええ。せめてお名前だけでもお聞かせいただけませんか。恩人に無礼を返すなど、ルルド家の名折れですもの」
きらきらした瞳で見上げられる。可愛い女の子の上目遣いは罪である。うう、椋は内心唸った。誰がそんなお願いを無碍になどできるというのか。しかも確実にこの子、なにも計算なんてしてない。
仕方がない。どうしようもない。
椋は本日二度めの腹をくくることにした。
「リョウと、いいます。リョウ・ミナセ。普段は、ここの一本先の通りにあるクラリオンという酒場にいます」
「わかった。必ず訪ねよう」
「ほんとうにありがとうございました、リョウさま。このご恩は必ず」
男は目礼し、女の子と女性は深々とお辞儀をする。そうして連れだって去っていく。遠ざかっていく背中をながめはせず、椋もまた、複数の目線から逃げるようにそそくさとその場を後にする。
まだ僅かに指先が震えている。脈が逸っている。
ぐっとひとりこぶしを握る椋の顔にはしかし、押さえ切れない笑みが浮かんでいた。