5. おそれ、進め、そして
三回目の使用を終えた赤の指輪を外し、ひとつ、椋は息を吐く。ぽいとポーチへ放り込んで、次のひとつを取り出した。
赤、全身の体液循環を正常化させる魔術が込められた指輪。なりゆきと、クラリオンの主ガルヴァスのはからいで、椋は今クラリオンの中で患者の「治療」を行っていた。いま、東区画のアイネミア病患者は、集められるだけクラリオンに集められていた。
テーブルやいすを並べて作った即席のベッドには、決して少なくない数の人間が、それぞれ家族に付き添われてぐったり寝ている。
恐ろしいのは、懸命に患者の世話をしようとするその家族たちもまた、ほぼ例外なくアイネミア病に罹患しているということだった。
この異常事態に、日ごろの疲れも重なってか、それとも先ほどのあの奇妙な地震が関係しているのか。
最初は家族の危急を告げてクラリオンへ患者を担ぎ込んできた人間が、少し目を離した次には倒れている。彼、あるいは彼女もまた、同様の状態に陥っている――そんな事例も既に、一度や二度ではないのだった。
「リョウ、にいちゃ、」
「だいじょうぶだよ、ラニ。大人しく、ちゃんと座っててな」
たどたどしく椋の名を呼び、顔を見上げ、服の裾を握ってくる少年へ、椋は半ば無理やり笑顔を作って見せた。
本当は今も、小刻みな指の震えが止まらない。今しがた外した指輪は、バッグに放りこむより前に床に落としそうになった。
緊迫する空気、次は誰だという恐怖、椋の一挙手一投足に集中するさまざまな意味合いの視線。
すべての中心に自分を置かなければならない状況に、もう少しでも気を抜いたら動けなくなりそうだった。ヘイが一度は「これ」を禁止した理由が、いまさら、実感として痛みすら伴って身に染みる。
泥のように身体の奥底に蓄積されていくものには、全力で見ないふりをした。
異常事態に、思考は奇妙に冴えている。だが同時にひどく視界が狭い気もした。どこか酩酊じみてふわつく感覚は、気持ちの良いものではない。
ぶる、と小さく頭を振り、バッグの中にある指輪の残りを椋は確認する。
「……あと四個」
魔具の起動に必要なのは、特定の動作を行うことで、魔具の動力であり中心である、アンビュラック鉱のロックを解除することだ。そうすることで魔具に刻まれた術式へ魔力の供給がなされ、魔術が発動する。
それだけだ。それ以外は何の知識も、言葉も、魔力も必要ない。
新しい指輪を取り出し指にはめていると、すっと横から差し出された手があった。
「休憩したくないのは分かったから、せめてこれくらい、な」
「ケイシャ」
そう言う彼も、十分すぎるほどひどい顔をしている。
しかし言葉はのみこんで、その手に載った飴玉をありがたく椋は受け取った。ぽいと口の中に放り込んで、その甘さがやたら心地よく感じることに苦笑する。
確実に、椋自身が考えているよりずっといろいろなものが疲弊している。
サポート役を率先して買って出てくれているケイシャに、椋は問いかけた。
「ありがとう。……なあケイシャ、今ここに運ばれてきてるのって、全部で何人だっけ。で、俺、何人治療したんだっけ」
「え、っと。今ここにいるのは、患者だけで確か二十一人だ。家族も含めればたぶん、その三倍はいるんじゃないか?おまえの治療人数は、悪い、ちょっと把握できてないな」
青い顔で、それでも指折り数えて、ケイシャは椋のほしい情報をくれる。
彼もまた、アイネミア病の患者である。けれど他の人たちよりはまだ症状は軽いから、動けるからと言って、無理を押して、椋を手伝ってくれているのだった。
情報を椋は反芻する。ショック状態で、ここクラリオンに運ばれてきた患者は二十一人。さらに患者の家族が時間差でショックを起こして倒れた例が確か七件、ショックのため、二次的に骨折などの怪我を負ってしまった例が六件。
ヘイから預かった魔具は、試作品の名の通り確かに「完全」ではなかった。発動成功のサインが分からなかったり、発動それ自体が失敗してしまった例もあった。
椋は改めて入り口を見やる。どうやら新しく患者が来ている様子はない。ここに患者を運んできた家族たちの容体も、少なくとも悪化はしていないようには見える。……もちろん、油断はできないが。
なにしろ椋には、彼らがショックを起こした原因がさっぱりなのだ。
わからない以上、油断は絶対の大敵である。
「しっかし、リョウ。ここ最近本当に随分頑張ってるとは思ってたが、おまえ。やっぱりすごいやつだったんだな」
「おやっさん」
妙にしみじみした声音に椋は振り返る。ほれ飲みな、と無造作に差し出されるのは、エルネードという、作り方自体はレモネードに似た飲み物だった。
椋がクラリオンにいた二か月くらいのあいだで、たった一度しか飲ませてもらえなかった、ガルヴァスいわく「とっておき」である。水から何からすべて他とは違うのだそうで。実際に一度飲ませてもらったときには、一口飲むごとに身体の疲労が吹っ飛んでいくような感覚に、椋は大層驚いたものだった。
そんなものが今、椋の前に当然のように差し出されていた。
躊躇しかけた椋に、ガルヴァスはさらに笑う。
「何遠慮してんだおまえは。ほら、受け取れ」
「え、いやでもおやっさん、」
「馬鹿、遠慮すんなリョウ。おまえは俺らの命の恩人なんだ、これくらいさせろ」
とんでもない言葉に、反応が遅れた。思わず受け取ってしまって、返すこともできずに椋は戸惑う。
そもそも椋が今動けているのは、色々な「反則」を積み上げた結果だ。「外」にしか存在しない知識を引っ張って事態を曲がりなりにも解明して、かつ、「治療」を可能にしてくれた、ヘイという協力者がいてくれたからこそだ。
もしこの世界に魔術も魔具も何も存在しなかったら、いま、椋は絶対に何もできなかった。ショック体位ってなんだっけ、どうだっけ、から始まって、点滴の組成のひとつもわからずにただ右往左往するだけだったはずだ。
しかしそんな現実、誰も理解しない。理解される必要だってない。
半分あきらめて、椋はエルネードを口にする。そんな彼をやけに満足げに見やって、またガルヴァスが口を開いた。
「妙なやつだとは思ってたがなあ。まさか、魔術師だったなんてな」
「ちがうよ。全部、ヘイのおかげだ。俺はただ、欲しい欲しいってあいつに駄々捏ねただけ」
ヘイは、一度は「試作段階を預けられない」と言い切った。
だが今、彼はたぶん魔具師としての矜持や信念、そういうものを曲げて、椋に「不完全品」を預けてくれている。だからこそ、椋は今、この場所で「なにか」ができる。
さすがにそこを間違えられるわけにはいかない。否定する椋に向けられたのは、呆れたような、おかしがるようないくつもの顔だった。
「おまえなぁ。どっちにしたって、人を助けられるんだ。凄いことに変わりはないだろう」
「そうだね。ヘイは凄いと思う。すげー変な奴だけど」
「ちょっとリョウ、話のすり替え方が下手すぎ。あとねぇ、謙遜って、しすぎると鬱陶しいのよ」
「鬱陶しいってひどいな!?」
ガルヴァスに続いたのは、ショックを起こした後、指輪の力でなんとか回復させた同僚のアリス。
ざっくりした遠慮のない言葉に思わず笑ってしまう。笑いに、笑う声が重なる。気づけば、クラリオン内の誰もが、椋のことをやわらかい視線で見ていた。
照れくさくなってきて、熱っぽい頬を隠すようにぐい、と椋はエルネードをあおる。
「おいこらリョウ、さすがにもう少し勿体つけて飲めよ!」
「……っは、美味しかった。ご馳走様でした」
「おんまえ……」
呆気、な響きのガルヴァスの声に、この夜一番に明るい声がからりとクラリオンに鳴った。
椋も笑った。これくらい、なんでもないと思った。始まったときの皆の青白い顔なんて、もう絶対に二度と見たくなかった。
あとはショックがここにいる人たちだけで、おさまってくれてるなら――
物凄い音が響いたのは、そんなことを椋が考えかけた瞬間だった。
「―――リョウ!」
叫ぶように名を呼ぶ声は、椋のたしかに知る少女のものだった。
さっきまで閉じていた扉が開いている。開け放たれた扉の前に、息を切らして、ありえないはずの存在が立っていた。
椋は思わず目を見開いた。
視線の先にあったのは、見事な金と銀のいろをした、ひとりの、少女の姿だった。
名前を声にするより前に、華奢な身体はどさりと、その場に足から崩れて倒れた。
「カリア!? カリア、……ちょ、おい、カリア、カリアっ!」
考えるより前に駆け寄っていた。抱き上げる細い体がひどく軽いことに今更ぞっとする。自分によりかかるような形であおむけにさせ、まず、規則的に胸が上下している事実にほっとする。息はある。
そっと首筋に触れたとき、薄っすらと金色のひとみがひらいた。
「カリア、カリア。……わかる? 俺だ、椋だよ」
「りょ、……う、」
「そう。……大丈夫? 水、飲む?」
「ん、」
名前を呼び返す声も応えも、どちらもひどくふわふわしている。疲れたんだろう身体を預けるようにもたれかかってくる身体に、少なくとも明らかな傷はないことにまず椋は安心した。
動くため顔を上げた瞬間、すっと横から水の入ったコップを差し出された。
「はいリョウ、水よ。……なにがあったの?」
「俺にもわかんないよ。ごめん、ありがとうアリス」
「なにがごめんか分かんないわ。頼もしいわれらの恩人さん」
いたずらっぽくウインクして、アリスは椋から離れていく。わかっていないらしいカリアは、なんとなく茫洋とした瞳でこてんと首をかしげた。
本当に大丈夫かこの子。ちらっと心配になりつつ、ゆっくり、その目前にコップを差し出す。
「カリア、水。飲める?」
ゆるく銀色の頭が頷く。かた、と彼女の右腕が震える。手を伸ばそうとして、いる、らしい。しかし眺めども彼女の腕はあんまり持ちあがってこない。
しょんぼり、途方に暮れた金のひとみが見上げてくる。縋るようなひかりに、思わず椋は笑ってしまった。
「じゃあ、俺が手添えてるから。慌てないで、ゆっくり少しずつ飲んで」
「……ん、」
もう一つカリアが頷いたのを見て、そっとコップを持っていく。待つように、少しだけ開かれたくちびるに一瞬だけぎくりとしたが、そんな場合じゃないと思い直す。
こく、とゆっくり、わずかに見下ろす喉が動く。
何にそんなに削り取られたのだろう。大きくはないコップ一杯の水を彼女が空にするまでには、それなりの時間を必要とした。
それでもようやく全て飲みきったカリアが、人心地ついたようなため息を吐く。まだいるかな、尋ねたが、彼女は首を振った。
「も、……だい、じょうぶ」
言って、上半身を起こそうとする。
が、まだやはり身体の方が大丈夫じゃなかったらしい。すぐにぐらついた身体はぽすんと椋の胸に逆戻りした。
まるで起き上がりこぼしである。また笑ってしまいそうになるのを堪えながら、椋はよしよしとかたちの良い頭を撫でた。
本当によほど疲れているのだろう。カリアは何も言わず、あまり動きもせず、ただ、椋になされるがままになっていた。
「リョウ」
「ん?」
どこか頼りなく、椋の名を呼ぶ声。
見下ろすと、かち合った金の瞳にまた呼ばれた。
「リョウ」
「うん、どした」
「リョウ……」
「……よしよし」
このまま寝かせたほうがよさそうだ、ふわふわしたやりとりの中で椋は思う。どこからどう見てもカリアは疲れすぎている。幸いカリアが入ってきた後に、新しく患者が増える様子もない。
簡易ベッドに運ぼうかと、彼女を抱え直そうとしたときだった。
唐突に、びくりと強く身体を震わせてカリアが腕の中で息を呑んだ。
「……カリア?」
「あ、……っリョウ、リョウ、……にし、」
ぎゅっと、彼女の手が椋の上着をつかんだ。かたかたと小刻みに震えているのが伝わってくる。にし? 何のことか分からず眉を寄せた椋を、慄きに見開いたままの金色が射貫いた。
「ヨルドが、あなたをさがしてる。……西、前の、ラグメイノ【喰竜】級、の、」
「……え?」
「教えて、くれって、……死人が、いま、かなり、って……!」
「っ!!」
拙く途切れ途切れの言葉は、けれどあまりに簡単におぞましく繋がる。
その日初めて、椋は血の気が失せる音を聞いた。おそらくそれは、クラリオンに集う全員が同じだった。
考えないようにしていたのだと、そのときはじめて椋は知った。本来、考えるまでもなかった。こちらも無事でないのに、あちらが、より、被害が大きかった向こう側が無事なはずがない。
アイネミア病は、東と西の病。
そして今、以前のラグメイノ【喰竜】級襲撃で相応の被害を被った西区画は――
 




