4. 混迷のうちに探すもの
なるほどな。
……主の居ぬ間に、随分な勝手を繰り広げてくれているものだ――
決して長くない通信を終え、カリアは重い息を吐く。
ここは自分に任せろというニースの言葉通り、一定距離を離れてしまえば、オルグヴァル【崩都】級の触手はもうカリアを追ってこなかった。
頭が、ひどく重く痛む。尋常でない速度で、魔力が削られ続ける感覚に吐き気がする。カリアが今でもあの場の結界を維持し続けているのが理由だ。必要な魔力の多さからして、今更ほかに委ねられるような戦況でもないだろう。
荒くなった息がおさまらない。どんな魔術が施されているか分からない貴族の邸宅に身体を預けるわけにもいかず、ぐらりと身体を揺らしながら、カリアは己の胸を押さえた。
「……っ、ぐ、ぅ……っ」
がりがりと、自身が削られていくような感覚。胸元を握り締めたままカリアは眉を寄せた。
あのとき咄嗟にカリアが張った結界は、結界内外の事象を完全に遮断するためのものだ。カリアが倒れるか、内側から無理やり結界が破られない限り、魔物をそこに閉ざしておける。そんな術だった。
いったい何が起こっているのか。誰の手によるものなのか。
まともに思考する暇もなく、もうひとつカリアは苦しい息を吸い込んだ。
この結界術は、本来は複数人で扱うべき、高位の術式である。
無理もいい加減にしておけよと、いつだったか大怪我をしたとき、ヨルドにかけられた言葉が脳裏をよぎる。
「……あ、」
目の端で、炸裂する赤や黄や緑の光を捉える。ニースのものとは違う。おそらく最初の方でカリアが連絡をつけた団の部隊が、ニースの支援として到着したのだろう。
よかった、少しだけ彼女は胸をなでおろした。なにしろあまりに魔力の消費が酷過ぎる。しばらくまともに動けそうになかった。
無論休める暇などない。あともう少しでも魔力が回復すれば。痛苦など関係はない、動かなければ、戦わなければ。
己の立場は、存在は、未だにひどく微妙なものだ。だからこそ何にも隙を見せてはならない。戦いつづけなければ、前には進めない。
だからこそカリアはひとまず、少しでも早く魔力が回復するよう安静に努めていた。
だが。
「……は、……」
弾んだ息は、いっこうに戻る気配がない。動悸がなんともおさまらない。
それは、不穏に胸騒ぎに似ていた。いつものように魔力の使いすぎだけならば、たとえ結界展開を続けているとはいえ、ここまで回復が遅いということはありえない。
ばくりとまたひとつ心臓が脈を打つ。言い知れぬ不安を感じて、カリアは唇をかんだ。
何がカリアを掻き立てるのか、彼女自身が分からなかった。
既に全騎士団、および魔術師団の団長、そして最後には「かの方」と連絡をつけた。しばらくまともに魔術を使えないカリアに代わり、他の団の者たちがニースの助太刀をしてくれる。
相手がオルグヴァル【崩都】級とあっては、団長自ら出向くことはないかもしれない。が、それでも第三位階以上の魔術師および騎士数人と第六位階以上の魔術師および騎士数十人での数と火力で短期決戦に持ち込むことができれば、基本的に本体はその大きさゆえに愚鈍であるオルグヴァル【崩都】級は、決して倒せない魔物ではないのだ。
それは過去から証明されている事実だ。過去の先達が何度も何度も、その通りに討伐を成功させているのがオルグヴァル【崩都】級だ。
確かに分かっているはずなのに、それなのに。
どうしても何か言い知れない不安が、恐怖が消えない――
『――――嬢ちゃん、そこにリョウはいるか!?』
とどろく声に、呼吸が止まった。
それが知った相手のものだと分かるまで、少し時間がかかった。ヨルド? ほとんど吐息だけで問うた名前に、深い嘆息がひとつ返ってくる。
普段の彼とはまるで違った。何もかもかなぐり捨てるかのような、ひどく鬼気迫った声。一瞬たりとも無駄にはできない、危急の場の人間の調子で――どうしてそんなときに、彼がリョウの名前を呼ぶ?
あまりにわけがわからない。カリアは整った眉をひそめた。
「いないわ。どうして」
『患者の状態が急に変わった。総員で処置にあたっちゃいるが、どれの何が正しいのか、俺らには正直、はっきり方法が分からん』
あまりに苦り切った声、言葉だった。それがひどい絶望であると理解するのに、もう一拍分の空白をカリアは必要とした。
判った瞬間に背筋が総毛だった。同時多発的に、異常事態が起こっている。こちらでは異常の魔物が暴れ狂いはじめ、一方彼らのもとでは、患者が分からないという。
この国一番の治癒魔術の使い手たちが、患者が不明であるという。分からないからあの黒を、リョウ・ミナセの居場所を訊ねている。
奇妙に目の前が小刻みに揺れている。自分の膝が震えているからだと、カリアにはまたしばらく分からなかった。
どうして、なぜ、なんで。
ぐるぐると、後回しにせねばならない疑念ばかりが脳内に渦巻いていく。リョウは奇妙なひとだ。視点だって突飛だ。根本が何か、ちがうのだと、ちがうひとなのだとカリアは知っている。
でも、……リョウ、「それだけではない」の?
返す言葉を失うカリアに、更に衝撃的な言葉をヨルドは続けてきた。
『このままじゃ、相当な数の死者が出る』
「……な、んですって?」
『何しろ絶対的に手が足りなくてな。こんな時間だからな、ほうぼうに手をやっちゃいるが創生士、祈道士どちらも集まりがすこぶる悪い』
ぐるりと目の前が一つまわる。
胸中静まらない心臓がうるさい。まるで耳元で絶えず、大音量でがなりたてられているかのように響く。手が足りない。それはここ、北も同じことだ。結界の削られ方はまるで変わらない、内側の戦闘はまだ続いている。戦えば、傷がつく。そこに癒し手がいなければ、魔術師は、騎士は遠からず死に瀕する。
とてつもなく嫌な予感がした。
こみ上げてくる吐き気を堪えて、カリアは問うべき言葉を投げた。
「ヨルド、あなた、いまどこにいるの?」
『西だ。半月前、ラグメイノ【喰竜】級が出たあのあたりだよ』
パキリと小さく音がした。
足元にあった乾いた枝を、踏み砕いてしまった音だった。
悪寒が、戦慄が少しも収まらない。うまく息が吸えない。突如卵として出現し、孵化したオルグヴァル【崩都】級、半月前のラグメイノ【喰竜】級の出現、そして原因不明の病、アイネミア病。
ここまで来て、誰がそれらを無関係と言うだろう。繋がりなどわからない、本当ならば分かりたくもない、わかったところできっと大変に碌でもない、けれど。
あなたはそれを知っているの、リョウ?
ここにはいない青年へと、気づけば心の中でカリアは問いかけていた。
『嬢ちゃん。俺らは動けない。だから頼んでもいいか』
きっとあいつは東にいる。もしそこでも同じことが起こっているなら、リョウが動いているなら。
すべて言われるより前に、彼女はその場から駆けだしていた。
息苦しさも眩暈も、すべて放り出してカリアは走りだした。




