2. あがけない黒
結局、家主は閉店までクラリオンで飲んだくれた。
とにかく酒だけ飲もうとするので、ときどき適当な食べ物を目の前に突き出した。突き出せば食べる。むしろそっちを待っていたとばかりに貪り食う。
この一か月半で知った、椋の、ヘイとの付き合い方だった。
「……でェ?」
「なんだよ」
家へ帰る道すがら、脈絡のない声が突如振られる。ウイスキーでいえばボトル半分はあけておいて、ヘイは顔色一つ変えない。
目力の強い三白眼は、その色も相まってナイフのようだった。思わず身構える椋に、ヘイは鋭利に言葉を刺した。
「いい加減、どォにかする気になったかよ」
椋を見据えて放たれるそれは、大変に事実で、どうしようもなく酷い言葉だった。
構えていたにもかかわらず、それでも椋はわずかに息を詰めた。
ヘイは、現時点で椋の「事情」を知る唯一の人間だった。椋のフルネームが水瀬椋であること、この国どころか、この世界の人間でないこと、医者を目指す人間、医学生であったこと。そのすべてを、彼は知っている。
ハッと鼻でヘイは笑った。
「仕事中もまァ、ちっちぇェ治癒魔術にもイチイチ気ィとられやがって。ンッとにわかりやすいなあ、テメエは」
わかりやすい。ああ、本当にいまさら指摘されるまでもない。
なぜ椋が「平民なのに治癒の魔術に興味を持つ」のか。持たずにはいられないのか。
答えは簡単だ。それこそが椋の、長年の夢だったからである。つい最近までは、そう遠くない「目標」に変わっていたはずのものだから、である。
ぼんやり物心ついたくらいのときから、椋には医者になるという夢があった。
今となってはいったい、何が最初の憧れだったのかはよくわからない。近所の開業医の先生だったのか、何かのドキュメンタリーの影響か、たぶんどれも正解で、しかしどれもはっきりはしない。
確かなのは、それがずっと揺らがなかったことだ。
揺らがな過ぎて、他の職業に就く自分の姿を、椋は少しも考えたことがなかったのだ。
ぐらりと腹の底が煮える気がして、思わず椋は両拳を握り締めた。
「どうしろって言うんだよ、だから」
流そうとしても、伏せきれない苛立ちが声に棘として混じる。
青年は、ある日突然何の前触れもなくこの世界に迷い込んだ。迷い込んで、人生の迷子になった。なぜなら、彼には魔力がなかった。
からっきしであった。魔術で成立する、医療はイコール魔術と言ってもいい、少なくとも大多数にそう認識されているこの世界で、だ。
椋から話を聞きだしたあと、ヘイはまず椋の「魔力測定」を行った。
文字や絵がぎっしり詰め込まれたような盤に手をかざさせられた。何の変化も起きなかった。彼は首を振った。
そして通告。テメエにゃかけらの才能もねェな、と。
「ハッ、腑抜けた顔してよく言う」
「何の不都合もないところに、どうやって何もない俺が入っていけるんだ」
「何もねェハズねェだろう。テメエのオツムは飾りかよ」
「ヘイ」
「俺ァな。確かにそこに使えるモンとして在ンのに、誰もそれも使わねェ、見向きもしねェって状況が何より大ッ嫌いなんだよ。テメエの持ってるモンを、一番に活かせるのは俺じゃねェ。ちったァ手助けぐれェはしてやってもいいけどよ、所詮はその程度だつッてんだろが」
さらに苛立ちをあらわにする椋を、その感情ごと突き通すようにヘイは続ける。
こわい彼は「魔具師」である。魔術を応用した道具を作り出す、れっきとした職人である。
昔は「いろいろとやりまくった」らしいが、今はアンブルトリアの片隅で、小さな店を営んでいる。妙なものばかり並べた店では、常に閑古鳥が鳴いている。
椋は眉間にしわを寄せた。
「なんで、そんなに拘らせようとするんだよ」
「むしろテメエは、何をそんなにビビってやがる。そこまでタマ小さくする理由が、いったいどこにあるってんだよ」
「……おれは」
縮こまったように、椋の舌はうまく回らない。
うまく答えよう、適当に切り抜けよう――少しでもそんなことを考えようものなら、本当に文字通り放り捨てられそうだった。
ゆえに。
「だって、俺の知識は完璧じゃない」
「誰だってそうだろうよ、ンなもん」
「知ってることだって、穴だらけですごく浅いんだよ。そんなの、どこに活かせるんだ。ぜんぶ、なんだって魔術で治せて、それで、ぜんぶ回るんだろ。問題は、ないんだろ。それより遅くて非効率的な方法なんて、誰が、どこで必要になるんだよ」
ただ、事実を並べるしかない。かたい声は、半ば自分自身に言い聞かせるような響きも帯びていた。
ヘイの半眼が恐ろしい。視線を振り払うように、椋は首を振って空を仰いだ。
「どうにもできない。……どうしようもないんだよ、だから」
いずれ、医者になれるはずだった。
這う這うの体で大学受験をなんとか突破して、医者になるための教育を受ける権利と義務を、確かに椋はつかみ取っていたはずだった。
なのに、あの日唐突に、椋にとっての「いずれ」が消えた。
どうして自分はここにいるのか、気づいたときには、ヘイの家の前で倒れていたという。理由はわからない、違う世界の人間など、前例のひとつも聞いたことはないと、ヘイは言う。
迷い込んでしまったのは、医者がない世界だった。椋が絶対に、医者になれない世界だった。
魔術師であることが、医療にたずさわる大前提である世界だった。
医者になること。それは椋にとって、何より大切な夢だった。いつから考えたのかももう忘れてしまったくらいに、昔から願いつづけたことだった。
目標にできたと、思いはじめられていたことだった。
なのに、いきなり根こそぎ全部奪われた。
大きすぎる絶望から這い上がって次なんてものを考えるには、まだ、どうしたって椋には時間が足りない。
「……めんどくせェ奴」
たいへんに呆れた調子で。
呟かれたヘイの言葉は、聞こえないふりをした。