3. 衝突
ひとり椋は道を歩く。
二人に言われた言葉の意味は、よく分からなかった。だが、あちこちの本屋で地図を探しはじめて、少しわかった。
一般に流通している地図は、ひどく大雑把で曖昧だった。見つけられるのは、縮尺も道の本数も不明瞭なものばかり。一番マシだったのが「アンブルトリア食べ歩きガイド」だったのは、たぶん笑いどころである。
もっと正確なものはと聞いてみると、そもそもなんでそんなものがいるんだ? と聞かれる。
道がわからないんなら、王都広し、案内人を探すのが一番確実だぞ、と。
――しかし正確な王都の地図か。この間魔物の調査に来てた、騎士さまがたが持ってたようなやつってことかい。
――ああ、あれな。あのなんとも無愛想でとんでもなく細かそうな。
――しかしいきなりどうしたリョウ、クラリオンの休み中に、何か新しいことでも始めるのか?
言ってみれば、新しいこと、では、ある。
何となく不穏な気配に、既に椋はそわそわしていた。
「……はーっ」
魔術を調べた次は、患者を調べる。魔術を使わず、時間と自分の手足を使って。
違う場所、なんだよなあ。空を仰ぎながらまた椋は思った。ここに放り出された当初より、もしかすれば強く考えているかもしれなかった。
道一本、店の一軒の話もそう、ものの組み立て、魔術もしかり。往々にして人々は「正確なそのものの情報」を必要としない。
多少、細部があいまいでも、違っても、大勢に影響はない。導かれる結果が「ほぼ」同じであれば、手段や方法の正確、事象の完全な再現性は問われない。
一方で椋が欲しているのは、正確な「そのもの」の情報であるわけだった。
「……ここか」
目当ての建物の前で、椋は足を止めた。
第八騎士団リヒテル、ごてごて飾り立てられた看板の文字を読む。エクストリーの王宮は開放的で、一定の区画までであれば、椋のような一般市民の出入りも可能なのだ。
騎士と言われて、まず椋が思い浮かべた相手はクレイだった。多少の無茶にも耳を傾けてくれるかもしれない、ここ数日は忙しいのだろう、気づけば顔を合わせていない友人だった。
ここまで足を向けたのは、アイネミア病の調査にあたっているのが、第七および第八騎士団だと聞いたからでもあった。何か知らないことが聞けたりしないだろうか。そんな淡く甘い希望も、椋は抱いていたりする。
しかし見れば見るほど、看板と同じくごてごてに重そうな扉である。
よし、ひとつ気合を入れ、椋は目前のドアを押し開いた。ギイと軋むような音がして、受け付けカウンターのようなところにいた少年が、ぱっと顔を上げる。
空をくりぬいてきたように、青い瞳と目が合った。
「一般の方ですか。なにか、ご用ですか?」
「あ、ええと、すみません。クレイ……クレイトーン・オルヴァは在室ですか? 急で申し訳ないんですが、少し相談にのってもらいたいことがあって」
「……お名前をうかがっても?」
「リョウです。リョウ・ミナセといいます」
クレイの名前を出すと、少年は少し怪訝そうな顔をした。だが幸いまじめな性質だったようで、名乗れば「少々お待ちください」の言葉と共に、どこかに少年は消えていく。
ぐるりと周囲を見回してみる。表と比べて全体的にずいぶん質素に見えるのは、ここが一般解放されている区画だからなんだろうか。
先ほどの少年とともにクレイがやってきたのは、それから割にすぐのことだった。
かっちりとした詰襟の軍服に、肘くらいの長さの短いマント。
当たり前ながら、友人のその姿は「騎士様」だった。
「コスプレじゃない……」
「いきなり来ておいて何の話だ」
うっかり口に出した言葉に、クレイがむっと眉を寄せる。不機嫌を隠さない瞳は、前に見たときよりもさらに疲れているように見えた。
若干顔色が優れないような気もする。だいじょうぶか、メシ食ってるか。またつい口が滑りそうになる椋を察したのか何なのか、渋い顔でクレイが奥を指した。
「とりあえず来い。茶くらい出す」
「あー、……時間とか、大丈夫なのか? クレイ」
「そう思うならいきなり来るな。ジュペス、頼めるか」
「わかりました。すぐに」
端的な指示にさらりと応じ、少年が奥へ引っ込んでいく。先導されるまま通された部屋は随分簡素で、椅子に置かれたクッションは端が少しほつれていた。
ちぐはぐな印象を受けつつ、目線で促されて腰を掛ける。
息をついたクレイが、腕組みをした。
「で? 急にどうしたんだ、リョウ。何かあったのか」
「ちょっと欲しいものがあって。おまえに頼めないかと思って来た」
むしろ個人で何かありそうなのはクレイの方だろう、思いながら椋は本題を口にする。
近くで改めて見る友人は、何というか、倦怠していた。顔つきや目の色、雰囲気がものすごくうんざりしていた。
がらんとしている、この建物内の様子にも関係しているのだろうか。
椋の内心をよそに、クレイは目を眇める。無言で先を促され、椋はうなずいた。
「アンブルトリアの、縮尺が正確な地図が欲しいんだ。アイネミア病の患者の分布を、重症度別に調べてみようと思ってて」
「……なに?」
あの魔物が王都に現れた日、患者はどこにいたのか。
どこで、何をしていた人に、どんな症状がどれくらいの重症度で起きているのか。
あの日出現した魔物と、アイネミア病に関連があることはほぼ確定と言っていい、はずだ。患者は王都アンブルトリアの東と西区画に限局しており、少なくとも椋が知る限り、南や北区画で患者が新規に見つかったという情報はない。
加えて、東西区画に居を構えていても、アイネミア病にかかっていない人間もいる。椋も含めたごく少数ではあるが、皆無ではない。
あの日あの時間帯にどこにいたのか、なんとなくの感覚、噂ではまことしやかにささやかれる、それが関係しているのかどうか。
更に言えば、病気の重症度は「中心」に近づけば近づくほど上がっているのではないか。より「濃厚な接触」が、症状の重さの具合に関係してはいないか。
データとして示せない今はまだ、すべて椋個人の感覚でしかない。
だからこそ、調べてみる価値もあるのではないかと思った。
無魔で無知の椋は、ひとを治せない。治癒魔術の魔具に関してはヘイ曰く「目途がついてきた」らしいが、少なくとも今の椋は、直接には何もできない。
しかし動かない選択肢は、自分自身で踏みつぶした。
返事をしない友人を椋は呼ぶ。
「クレイ?」
「……なぜ、そんなことを考えた」
「なぜって、だって、今まで誰もやってないんだろ? それなら、」
多分、俺がやるしかないんだろうなって。
そう軽い調子で言おうとした言葉は、首を横に振ったクレイの言葉によって途中で切られてしまった。
「そうじゃない。なぜおまえは、今回の事件に積極的にかかわろうとしているんだ」
「なんでって、だってアイネミア病の患者は、俺が今まですごく世話になってきた人たちばっかりなんだ」
苦しんでいる皆を、ただ黙って見ているだけ、何もしないでいるのは嫌だ。
言い募ろうとする椋の言葉を、また更に首を振ってクレイは途中で切った。
「ちがう。そうじゃない」
なんとも歯切れが悪い。「ただ」自分が変なことを言っている、それだけではないような気がして椋は眉を寄せた。
友人が、自分の何に引っかかっているのかが分からない。答えを待つしかない沈黙に、どこか途方に暮れたようなクレイのため息が落ちた。
訊ねるしかなかった。
「クレイ、悪い。俺がやろうとしてるのって、そこまで変なことなのか?」
俺、ただ正確な地図がもらえればそれで。
すべて言い切るより前に、硬くて低い声が答えを投げ寄越した。
「機密文書を無料で一般人に下げ渡す国がどこにある」
「え」
「わからないのか。一国の、王都の詳細な地図。下手に他国に漏らされれば、容易に国家の転覆を招きかねない最重要機密のひとつだ」
「は?」
「そんなもの、末端の一介の騎士が個人の判断でどうこうできるものではない。……本当に、考えたこともなかったのか」
クレイの声は、瞳は諭すように静かだった。
だからこそ本当に、何を言われているのか分からなかった。なんで? 疑問符で思考が埋められていく。
道沿いの看板で、地図帳で、カーナビで、スマートフォンの地図アプリで。
まともに意識したことがないほど、当たり前にそれらは椋の身近にあった。いくらでも縮尺も変えて、簡単に見られるものだった。
だが同時に、どこかで読み飛ばした雑学の一節がちらりと頭をよぎる。かのシーボルトが日本を追放されたのは、伝手を通じて秘密裏に入手した地図や城の設計図を、こっそり国に持ち帰ろうとしていたことが発覚したから、だったような――。
ぞっとした。異世界。また今更の実感に、椋の思考が停止しかける。
欲しいものは、得られない。到底手が届かないところにしかない。
なにもできない。ただ指をくわえて見ている以外にできない。
どうしようもないのだと、膝を折るより、他に、――なにも?
「……じゃあ、俺、どうしたらいい」
「リョウ?」
気づけば言葉がこぼれだした。
相当妙な顔をしているのだろう。クレイが怪訝な顔をする。申し訳ないことをしている、たぶん、相当ひどい無茶苦茶な我儘を言っている。理性ではわかるが、奇妙な警鐘が頭の中で、ガンガンと鳴り響いている。
それじゃだめだ、ここで引くな。
根拠はない。本当になにもない。……けれど。
「おまえに頼めばいいのか。そうしたら誰かがいつか、やってくれるのか。……いつ? どうやって? ほんとうに? 人が死ぬより前に、俺が知ってる誰かが戻れなくなるより前に、できるのか」
欲しいのは「個人の感覚」を、目に見える形で情報として統合する手段だ。
アイネミア病は感染しない。同じ場所で生活しているのに、人によって、症状の出方も重症度も違っている。
これまで患者と接してきた経験から立てた、椋の仮説だ。今はどうしても、椋個人の感覚でしかない。客観的なデータではない。実際、今朝がたのヨルドとアルセラには、口にした瞬間に大変面白そうな顔をされた。
頭が痛かった。痛覚は、ひどく警告めいていた。この痛みを無視したら、そうすることができてしまったら、なにか、取り返しのつかないことになるような気がした。
どうしてなのかは相変わらずわからない。何の根拠もない。
無理だと背を向けてしまっても、諦めたって、誰も、きっと何も言わない。――椋以外は。
「クレイ。おまえたち騎士に、患者の一人一人への細かい聞き取り調査とか、できるのか。いくら現場に、街に足を向けるって言ったって、ほとんど教会に状況調査に行く、それだけになってたりしないか」
クレイが目を瞠った。ああ、間違ってはいないはずだ、なぜならそれは、椋が今まで何度も実際に見てきた光景なのだから。
アイネミア病の患者たちからちゃんと「話」を聞こうとする甲胄姿を、椋はほんとうに片手で足りるくらいしか見たことがなかった。調査はしている、知っている、あの「発生場所」には、今も日に一度はだれかがやってくる。
けれどその人たちの大部分は、ただ「彼らの流儀の捜査」をするだけだった。椋には分からない機械やら魔術やらきっとたくさんあったのだろうが、彼らのだれも、実際にその場にいた者たちに、改めて何を尋ねることもなかった。
そもそも大仰な鎧を着込んだ騎士たちを、街の人々は静かに避けていく。下手なやつにぶつかっちゃ大変だ、巻き込まれるのは御免だと笑いあいながら。
アイネミア病は、現在進行形で人々の生活を脅かしているのに。
クレイは何も返してこない。無言はおそらく肯定だった。ひとつ息を吐いて、友人へ椋は首を振る。
「ごめんな。でも、無理だ。退けない。退きたくない」
クレイは正しい。きっとこの世界で、何ひとつ間違っていない。
けれど椋には、その正しさは答えにならない。
何をあきらめ、足掻くのをやめる、元に戻るという選択肢の理由にはならない。見て見ぬ振りができるなら、そんな程度の感情なら、夢なら、目標だったなら。そもそも今、椋はここに足を向けていない。
がきりと、痛みとともに思考が廻る。
真っ白になった、この二ヶ月ほどで見知ったたくさんの顔を改めて考えた。
「だってさ、なあ、死ぬんだよ。治せるかもしれないのに。ちゃんとした治療が行えなければ、アイネミア病で、人は死ぬんだ」
西区画では、既に死者が出ているという。
東区画でも、ベッドから起き上がることもできなくなった重病人を椋は何人も知っている。
その差は一体何なのだ。何をどこからどう動かして、どうやって何が証明できれば、少しでも、苦しんでいるあの人たちの助けになれる?
ある程度までのアイネミア病なら、ヨルドは、創生士は治せると言った。
なのに、患者は悪くなる。根本を叩けない神霊術によって軽快と増悪を繰り返し、その繰り返しの中で命を落としていく。
握りしめた拳が震えた。
吐き気がするほど、肚が冷えていた。
「このアイネミア病って病気がどういうもので、誰がどんなふうに発症してどういう症状のときにどういう治療を受ければいいのか。それが分からなきゃ、治療法が医療者側で共有されなきゃ、確実にもっと状況は悪くなる。……いいのかよ、ちゃんとした調査がされなかったせいで死人が増えても! 救えるはずの人間が、救えなくても!」
適切な調査がされなかったせいで、あるいは適正な処置が遅れたせいで。
決して少なくない数が犠牲になった例は、星の数ほどある。日本で言えばサリドマイドや薬害エイズなどが、一般にもよく知られている事例になるだろうか。
「なあクレイ、国って、人を守るもんじゃないのかよ。国が人、殺してどうするんだよ」
そんな類のことが今、椋の目の前で起ころうとしている。
絶対そんなのは嫌なのだと、心が悲鳴を上げていた。
「国に属するっていうなら、そのための力だっていうなら。そのおまえらが人を守らないで、誰が、何を守れるんだよ!?」
「……っ」
それは半ば喚き散らすような、感情を身勝手にぶつけるだけの言葉だった。わん、と部屋中に反響した声に、その大きさと荒っぽさに自分で驚いてしまう。
ぐっと、ひどく苦しげな表情を浮かべて目前のクレイが押し黙った。なぜか彼の姿が微妙に滲んで見える、久しぶりに人を怒鳴ったりなんてしたせいで、涙まで出てきたらしい。
しかし一度波に乗って、転がり出してしまった感情は止められない。
言葉を返せない彼へと更に更に、椋が言葉を続けようとしたとき、だった。
「―――彼をいじめるのも、そのあたりにしておいてあげなさい、リョウ」
静かに響く、そんな声とともに。
クレイが中からカギをかけていたはずのドアが、開いた。




