1. 動けない黒
魔術といううつくしい奇跡に満ちた、満たされ切ったこの世界で。
青年はかけらの才もなく、けれど、それでも、抱いた夢を、
「う、……ョウ、リョウ?」
繰り返し呼んでくる少女の声に、はっと意識が目の前に戻る。
カウンターを挟んで向こう側、ひとりの少女が首をかしげて青年を見上げていた。
つよい光を持つまっすぐな瞳に、きつくすら見えるほど凛と整った面差し。白い肌にはシミ一つなく、表情がなければ精緻な人形と言われても信じてしまいそうだ。
さらりとくせのない長い髪を、耳より少し上の位置でツインテールにしてまとめている。質素なグレーのマントに身を包んだ少女、名前はカリアという。この酒場「クラリオン」の新米従業員である青年、水瀬椋の、最近できた常連客だ。
そして彼の手元では、焦げつきかけた鍋がジジジと不穏な音を立て始めていた。
うわっと思わず声をあげ、慌てて火を止め、鍋を避難させる。さらに少女は首をかしげた。
「だいじょうぶ?」
「ああ、うん。ごめんありがとうカリア、おかげで鍋焦がさなくて済んだ」
「よかった。でもどうしたの、リョウ。ぼうっとして。具合でも悪いの?」
「元気だよ。ちょっと、ほら、あそこで何かやってたのが気になって」
心配してくれる言葉に笑って首を振り、椋は鍋に水と調味料を足して再度火にかける。ふうん、と釈然としないような声を上げて、カリアはカウンターに頬杖をついた。
ここ「クラリオン」は、エクストリー王国王都アンブルトリアの東区画、その一角にある酒場だ。
大衆に開かれた酒場であるほか、さまざまな人々が、さまざまな情報を売り買いする時間と場所も提供している。今も二人の視界の端で、ひとりが店員に案内され、二階の特別室へと階段を昇って行った。
「リョウ。こっちにエール大4つね!」
「また追加の注文来てるよ、ここ置いとくから早くねってさ」
「了解っ」
ぽんぽんと、また次の仕事が舞い込んでくる。先輩たちの声に応じ、椋はまずジョッキを手に取った。
本日ぶんのエールが詰まった大樽、その蛇口をひねる、かわりに、「その部分」にある、赤色の石を手のひら全体でぐっと押し込む。中からエールは規定された分量だけがジョッキへ注がれ、同じ作業を4回繰り返せば終了だ。
厨房の別の場所では、炎で肉をあぶっている、活け造りの周囲に氷を撒いている、何かを切り刻んでいる、……指を切ったか、火傷したか、魔術で、治してもらっている人がいる。
少しは慣れてきているが、それでも椋には異世界だった。
正真正銘の異世界の、ファンタジー世界の、魔法の光景だった。
「……リョウ、ほんとうに大丈夫? もし邪魔ならもうお暇するけれど」
「えっああ、違う違う。今来たばっかりだろカリア、ゆっくりしていきなよ」
最後の一つに少しばかり胃の底が重くなる。そんな椋の様子を見てだろう、まだほとんど何にも手を付けないままカウンターから立ち上がろうとするカリアに、慌てて椋は首を横に振った。彼女は椋のそう多くないお得意様のひとりであると同時に、これまたまだそう多くない、普通に話ができる、年下の友人の一人だった。
確か年は、椋より6つ下の17歳。
こんなに心配されてしまっては、年上の威厳も何もあったものではない。嫌な感覚をごまかすように、椋は笑って一つ息を吐いた。
「カリアと初めて会って、そろそろ半月くらいか」
「そうね。……そうか、まだそれくらいなのね。あなたに、最初に声をかけてもらってから」
「最近はカリア楽しそうだよな。あのときと比べれば、ずいぶんさ」
「そうね。きっと、お陰様でね」
ふわりとカリアが笑う。それこそ「あのとき」とは比べ物にならない、自然なあかるい表情で椋を見上げて微笑む。
椋はこの、カリアという少女をよくは知らない。カリアが椋のことを知らないのと同じように知らない。
しかし改めて見やる今日も、彼女は大変な美少女だった。綺麗な鉱石や、精緻な人形のようなタイプとでも言えばいいのだろうか。一度見れば絶対に印象に残る、すれ違えば十人中九人は振り返るような美人である。
それにひとつひとつの所作に滲む品の良さや立ち居振る舞いの隙のなさから、きっとどこかのお忍びのひめさまでしょうね、確かにあなた、お忍び相手にはぴったりよね、なんて、他のクラリオン従業員たちは笑って、椋に言っていたりする。
こんな迷子のどこが、とは。
思っていても、カリアが楽しそうなので、とりあえず口には出さないことにしている。
「おぉいリョウ! 俺らも一応おまえのお客様だぞ!?」
「待ってるんだよーさっきからー。まだーリョウー?」
「あーあー、ごめん! あとちょっと! もうすぐできるから!」
空気を読んでか読まないでか、ぽんぽんと声が投げ込まれる。椋は負けじと声を張り上げ、完成した煮込みを大皿に盛った。
声の方向にいるのはクラリオンの古くからのお得意様で、陽気で気前もいい冒険者たちの一団である。新参者の椋を、面白がって率先して注文を入れてくれる人たちでもある。
待たせているし、椋が届けに行ったほうがいいだろう。ほいと大皿を持ち上げる。と。
「あっじゃあリョウ、これもお願い!」
「うわっなにこれでかっ」
後ろから湯気を立てるどでかいパイ包みが出てきた。
くすりと、楽し気にカリアが笑う。
「人気者は大変ね」
「面白がってるんだよ。ごめん、ちょっと行ってくる」
「私は気にしないで。いってらっしゃい、リョウ」
生まれてから呼ばれ続けてきたはずの名前が、響きが違って聞こえる。
まだ、なんとなく慣れない、と思う。このひと月半の間、椋は自分の名を書いて見せたことが一度もなかった。彼の現在の肩書は「クラリオンのリョウ」。漢字の意味を問われることはないし、苗字を聞かれたためしは皆無である。
それはまさに文字通り、彼とは違う世界だった。
根本から異なる世界のなかに、青年は放り出されていた。
「おぅ、やっときた! おっそいぞリョウ」
「あ、パイ包みも一緒か。リョウ、これ、僕らが仕留めてきた魚なんだ」
「今回はミニアも大活躍だったわよね。とにかく手数が多かったから」
「今回はってなんだよー。ボクはいつだってみんなの役に立ってるでしょ」
次々言葉の応酬をする彼らの前に、笑って椋は皿を置く。彼らの獲物は今日の特別メニューになっており、とげだらけの見かけによらず美味いと、すでに半分くらいが客の胃袋の中という盛況具合だった。
仲間たちに冗談交じりのふくれっ面をするひとりに、椋はパイ包みの皿を押し出す。
「ひとを癒やせるって、すごいことだと思いますよ」
勝手にまた胃のあたりが重くなるのは、気づかないふりをして笑いを続ける。
彼女、ミニアは、このパーティにおける治療担当、創生士という職業の人間である。珍しいほうの治癒職、人々は、そう呼ぶ。
からからとミニアが笑った。
「うん、ありがと。リョウはいっつもボクの肩持ってくれるよねえ」
「なんならリョウ、今度一緒にどこか行く? どっかの祈道士も連れて、アンタがお料理番でさ」
「……そうですね。そのうち、時間が合えば」
何の悪気もないお誘いに、椋はあいまいに笑って応じた。
空になったジョッキを拾い、まわりのオーダーもついでに聞いて。メインディッシュにまた盛り上がり始めるテーブルを椋はあとにする。
祈道士は、ひとを癒す魔術が使える職業の「もうひとつ」。この国の正教でもあるメルヴェ教の使徒でもあるそのひとたちは、創生士よりも、数はずっと多いらしい。
彼らにとって椋は、「平民なのに治癒に興味を持つ変わり者」だ。椋に、最初に実演で、「この世界の常識」を教えてくれたのが彼らだった。
違う場所で、違うところで。
目標にいきなり手が届かなくなったと、あのとき椋は思い知らされた。
――この世界には、魔術がある。
それは漫画やアニメ、ゲームで見るような火地風水を起こすものであり、敵を倒すためのものであり、傷つき、病に倒れたものを、瞬時に癒やすことができるものだった。
特にこのエクストリー王国は「魔術師の王国」とも周囲からは呼ばれる国だ。魔術の才能を持った人間が多く生まれ、その才を、人的資源を生かすべく、多くの制度が確立されている。
結果、ありとあらゆる場所に、魔術があふれていた。
先ほど使ったエールの樽も、コンロや、店内を照らし出すランプ、上下水道や空気の入れ替えについてもそう。椋がこれまで当然と見知って来たものとは全く違う方向に、この世界はとても便利にできている。
そしてなにより、魔術で人が癒やせるから。
必要とされるのは魔術師であって、この世界には、医者がいない。
「……あれ? カリアは?」
「ついさっきまでそこにいたけど、急用が入ったって帰って行ったよ。全部食べ切れなくてごめんなさいってさ」
「そっか」
若干足取りも遅く戻ってみると、席はからんと空いていた。
首をひねる椋に、クラリオンの従業員のひとりケイシャが言伝を投げてくる。軽くうなずいて次の仕事に取り掛かろうとした椋の肩を、思わせぶりに彼がつついてきた。
「残念だったな、デートの邪魔されて」
改めてそちらに視線を向けると、完全に面白がっているケイシャの顔。
椋は肩をすくめた。
「デートというより、お忍び先の話し相手みたいな感じ、だろう」
「そうねえ。あなたとしゃべってるとき、いつも楽しそうだものね、あのきれいなお嬢さま」
「さて、本当にどこのご貴族様だろうかな。うちとしちゃ金払いもいいし、いてくださるだけで見物の客が増えるから、まあ願ったりかなったりっちゃあ、そうなんだがよ」
椋の言葉に、同じく従業員の先輩であるアリス、そしてクラリオン店主、ガルヴァスの声が続く。にぎやかな酒場の喧噪の中で、決して深くは探らないことばが、少しだけ交わされて終わっていく。
彼女について、知っていることは大して多くなかった。カリアという名前、甘いものが好きなこと、魔術がそれなりに使えて、知識もある、らしいこと、あとは、なぜか椋の作る物を妙に気に入ってくれているらしいこと――そんな程度だ。
彼女はひそかな、椋の目の保養である。
きれいな女の子に毎日のように通ってもらって、気を悪くする男などそういない。
「――ほォん。知らねェうちにずいぶんと楽しそうなコトになってンじゃねェか」
「!?」
もう言葉は終わったかと思った刹那、いきなり横から飛んできた違う声に椋は飛び上がった。
よく知っているその声は、クラリオンの店員のものではない。反射的に振り返った先、どぎついオレンジ色が目に飛び込んでくる。
思わず椋は口を曲げた。
「ヘイ、いつの間に来てたんだ」
「ンだよ、来ちゃ悪ィってのか? 俺は客だぞ、客」
「はいはい。あんま態度悪いと外放り出されるぞ」
「ッは、ふてぶてしくなったモンだな」
鼻で笑って、当たり前のように度数の高い酒をあおる男は、目が痛くなるようなどオレンジの髪に、銀めいた青色の三白眼。耳鼻口元には形もさまざまなピアスだらけ、おそらく元は上等なんだろう深紅と白が基調のローブは、くたびれてあちこち皺やらシミやら焦げ跡やらがついている。
パッと見、どこのチンピラだと思わず言いたくなるこの男、名前をヘイという。
現在の椋が居候する家の主で、行き倒れていた椋を拾い、社会勉強だと椋をここ(クラリオン)に放り込んだ人間でもあった。
「今日はリョウのお客が多いね」
軽口には肩をすくめて応じる。まったくだ、気を休めている暇もない。
じっと観察するような目から逃れるように、椋は再度厨房へ入っていった。