9. 神霊術へ
それはまるで嘘のようで、しかし鼻につく血と肉の生々しい臭気は、偽りというにはあまりに濃い。
何とも不思議な空間の中で、瞬きも忘れて椋は目の前を見つめていた。
十どころか三も数える前に、すべて終わってきれいになってしまう傷を、少しでも覗きこみたくて必死だった。
魔物に噛み千切られたのだという、ふくらはぎが半分になった人が運ばれてきた。だくだくと血を流す深い切創を負って、舌を噛みきらないように布を噛ませて連れてこられる人がいた。
訓練の途中、誤って結界が解かれたのだという、上半身に大やけどを負った魔術師も来た。
アルセラ・ヘイルという祈道士の、その腕を望んで、先を託して。
「【御手の慈しみのひかりをここへ】」
りんと響くアルセラの声とともに、神霊術のひかり、術式紋がひらく。
見る間に、ぼろりと黒く焼け焦げてしまった皮膚が床に落ちていく。下から新たに組織が盛り上がり、やけどの痕すらほとんどわからないような速度と精緻で、再生は進んでいった。
はあ、とひとつ、アルセラが息を吐く。
光が揺らぎ、患者の全身に浮かび上がっていた術式紋とともに静かに消えた。
「よし、これでもう大丈夫だろう。今日はもう家でゆっくりしておきな」
にこりと笑って終わりを告げた彼女の顔を、患者はしばらく呆けたように見つめていた。
見下ろす肌は、当然のように肌色をしている。ほとんどまともに残っていなかったはず皮膚は、つるりときれいに外気から彼の身体を隔てている。表情を見ている限り、たぶん、痛みももうないのだろう。
異世界の治療が、そこにあった。
椋の知るどんな治療法より、早くて確実できれいで、患者の負担も少ない。そもそも治るのに時間がかかるという思考があるのかどうか。それくらいの速さで、アルセラは彼女をたずねて来る患者を癒やしてさばいていっている。
あんなやけど、俺だったらどうするんだ。デブリ? 植皮? いやそれ具体的にどうやるんだ?
理論上でしか知らない治療だって、目の前のそれとは到底比べ物にならない。時間も手間も、患者の苦しみも。本当に、まさに「魔法」だった。
ほう、と誰かが感嘆の息を吐く。
「ヘイル準神使様、やっぱりすごい……」
ほんとうだ、椋も全力で同意した。
そこでようやく、はっと我に返った患者が動きを再開した。
「……っあ、あ、ありがとうございましたっ!!」
半分くらいひっくり返った声で礼を述べると、あたふたとこの場から去っていく。
連れてきた仲間もビックリの俊足だった。あわあわと彼らもまた場を去っていき、一連の光景に、どこからともなく笑いが弾ける。
患者は彼が最後だった。
休憩にしようと、アルセラは軽やかに手をたたいた。
「――しかし術式紋の見本が欲しいなんて、初めて言われたよ」
「え。そうなんですか?」
そして今、一緒に食事をとりながら、そんな言葉を椋は投げられる。
貰ったものを、椋は改めて手元で広げた。神霊術の基本の術式紋の模写。少しでも何か「みほん」として、手元に、彼女の実際の施術と比較できるものが欲しくて頼んだのだ。
術式紋とは、魔術が成立、発動した証として、術式の完成と同時に浮かび上がる紋様のこと。一般的なファンタジーの、魔法陣のようなものである。
違う術者が同じ魔術を使用する場合、より術式紋がシンプルで無駄がなく、かつ紋様それ自体が美しければ美しいほど術者の技能は高い、らしい。そして見習いたちいわく、アルセラの術式紋は非常に洗練された、本当にきれいで無駄のない紋様なのだそうだ。
うっとりした瞳で、彼らはアルセラの施術を、その施術に従って浮かび上がる術式紋を眺めていた。
さすがにここまでいくと、鬱陶しくないかと思ってしまうほどの熱だった。向けられる当人アルセラは「少しでもあの子たちがあたしから何か学び取るなら、それでいいさ」らしい。大人である。
よくわからない椋は尋ねた。
「あの、術式紋って気にしないものなんですか?」
「気にしないもの、というかねえ」
少しアルセラが言い淀んだ。
恐らく説明のための言葉を選んでいるのだろう沈黙が少し。
「術式紋ってのは、魔術の結果を示すものだからね。類似の紋様を描き出すための術式の構築法ならともかく、術式紋それ自体に興味があるなんていうのは、少なくともこの国じゃあ、あれだ、魔具師くらいのもんなんじゃないかと思うよ」
「そうなんですか?」
「魔術っていうのはね、術者の意思や魔力のかたちに、形状がかなり左右されるんだ。術式それ自体が複雑で大規模な魔術になると、さっきの自分がやったこととまったく同じことをする、ってのはまず無理だろうね。少なくともあたしはできない」
「……はあ」
「そもそも限りなく同じような効果さえ発揮できるなら、過去と現在の魔術が「まったく同じ」でなきゃならない意味もないだろう?」
「あー……」
なるほど。納得はできる理屈である。
つまり術式紋は「術式構築の結果」なのだ。その逆、術式紋からその魔術そのものを再現するという思考は、普通はしない。
一方でヘイのような魔具師は、彼曰くこの術式紋を解析し、加工する職業である。色々な作業によって魔力の吸収・放出が可能になる特殊な鉱石、アンビュラック鉱を魔力の供給源とすることで、外部からの魔力供給なしに魔術を発動することができる道具、魔具を制作する職人だ。
どうにもここの人間は、魔具師ってヤツがいけ好かねえらしくてな。だからこそ俺みたいな天才はあえて、こんな狭ェ場所にいんのよ。
何かの拍子で聞いたとき、ヘイはそんな風に言っていた。
いまさら、少しだけ内容が理解できたような気がした。
「それで? 誰も気にしないような術式紋に目をつけたあんたは、なんか面白い発見をしたのかい?」
「面白いかどうかは分からないんですけど」
そもそも準神使、などという高い位を戴く彼女ならばきっと、これくらいは普通に知っているのだろうが。
良く気づいたねとそう言って、軽く笑ってもらえることを期待しつつ、椋は口を開いた。
「俺がもらったこの基本の術式紋って、大きく分けて三つの要素を組み合わせてあるんですね」
「え?」
何が言いたいのか分からない、というように。
わずかに瞠られる菫色の瞳に、午前の診療時間に見てきた事実を数えてみた結果を椋は続ける。
「アルセラさんが扱う神霊術は、基本的にはこれをベースに、患者さんの状態にあわせて、上中下どれかの領域をより細かく追加したものでしょう? 他の祈道士も、アルセラさんと同じようにしてるんですか?」
術式紋のみほんを指し示しつつ、椋は口にする。ある人は上、ある人は下、また別の人はおもしろいぐらいに均等。気づくまでに時間がかかって、どんな症状ならどうだったのかは、まだ分からない。
沈黙するアルセラをよそに、続けていく。
「あと、そのあたりの加減とか、どの部分に術式を加えるのかって、どうやって判断されてるんですか? そもそもこの三つって、どんな違いがあるんですかね」
本物に触れるって大事である。疑問はまた増えたが、何となく、進んでいる感じがする。
思考が軽い椋とは裏腹に、目の前の彼女はまだ沈黙していた。
「……アルセラさん?」
確実にたっぷり十拍分は待って、それでも何も返ってこない。期待していた反応が、何一つない。
そもそも目の前の彼女の顔は、なぜだ、愕然、という形容がぴったりなように見える。椋の術式紋みほんを、そして椋を凝視する彼女の視線が、痛みすら感じるほどに真剣なのはどうしてだ。
もしかしてまた俺、頓珍漢なこと言ったのか?
彼女の反応の理由が分からず、ただ椋は待つしかない。ようやく声がかけられたのは、それからたっぷり三十秒以上沈黙が過ぎてからだった。
「……リョウ」
「は、」
呼ばれた声に応じようとして、底の裏まで射抜くようなアルセラの視線に声が凍りつく。
そんな彼へと苦笑して、ひどく大きなため息とともに、彼女は。
「本当にあんた、タダ者じゃないね」
褒められているのか困惑されているのか。
椋には、どうにも判別がつかなかった。




