8. さしだす者
「なーなー椋。こんなんだとどうだ?」
声が聞こえる。自分の話を語って聞かせようとする、あいつの声。
いつの話だこれは。目の前に散らばっているのは。開かれた本のページは、そこに書かれているのは。
創造主は楽しそうに笑う。
「まずさぁ、魔術が二つに分かれててさ。それぞれが――」
「――バッカじゃねェの」
一応の保護者である彼は、ひとり笑わずにはいられなかった。
なぜかなりゆきで拾ってしまった居候は、この一ヵ月と少しの間で、一番強い目をしてここから出ていった。
馬鹿馬鹿しい。阿呆らしい。頓珍漢に、間抜けが過ぎる。
おまえがそこにしか意識がないのは、最初から分かり切っていたことだろう。
「ンッとに、よォ」
バキンと手元で音がして、またひとつ試作品がゴミクズに姿を変えた。チッと舌打ちをするヘイの顔は、しかしどうしたところで笑っている。
どんなにたきつけても、あおっても動かなかったリョウが動いた。
自分のために動けと、偽るなと言っても頑なに首を横に振った男が、あっさり他人のために動き出した。
いったいどんな聖人だ、カミサマだ。お人好しにもほどがある、お綺麗な理想は崇高に過ぎて、きっと誰もその労力と傷なんざ、かけらも理解はしちゃくれないだろう。
本当に笑うしかなかった。何だあれは。そんな理由で動くのか。自分ではない誰か。そんなものこそが理由になるのか。本当に。心底から。
違う世界の人間というのは、どいつもこいつもあんな奴ばかりなのか。
「――【この手に癒しを】」
ゴミクズの破壊で傷ついた己の手に、ヘイは乱雑な癒しをかける。白い光が、当たり前の現象として傷を塞いでいく。
消費魔力は少なく、魔術の構築式である術式紋もそう複雑ではない。
だというのに、眩暈のするような過去から今まで、これは魔具師にとっての鬼門だった。唯一、この系統の魔術だけは、かれらが道具にすることができなかった。
人を癒やすための魔具。神霊術あるいは創生術を魔具とすること。
理由は誰にも分からない。だが、できないのだ。わずかの狂いもなく書き写し刻んだはずの術式紋は、決して神霊術を、創生術を再現しない。
魔具による魔術発動の核となる鉱石アンビュラック鉱を、どれほど等級の高いものに変えても同じだった。材料を何としても、何を差し引き付け足しても、今ヘイが部屋の隅へ放り投げるそれと同じように砕けてゴミクズになるだけだった。
癒しの役を果たすことは、一度たりともなかった。
ゆえに聖職者たちは、それを「ひとの奇蹟」と呼んだ。
神から授けられた、苦しみを、禍を除き救うための、ひとの術であると公言してきた。
癒しの魔具の研究は、近年ではもはや、禁忌となりつつあった。神霊術と密接につながるメルヴェ教は、この国の国教であり、また全世界的な宗教ともなりつつある。聖職者たちは何度でも賢しげに口にする、「癒しは、人が人に対して向けるからこそ発動する、我らへ神が向け給う、深き慈悲の思し召しである」――。
誰も、おそらくヘイですら、今までそれを疑わなかった。
白い光は、確かに慈悲だった。創生術の薄藍のひかりも、術者の多量の魔力消費と、精密な魔術制御によって成り立つ慈善だった。
だが、あの黒はそれを否定した。
慈悲のひかりであるはずのものが、人を侵していると頭を抱えた。
そうにしかどうしても見えないと、苦しみながらも疑問し、それでも見据えなければと、前を、先を向いた。
「いいぜ。付き合ってやろうじゃねェか」
呟いて次の工程に入ろうと道具を取ろうとして、今己が壊したものが最後のひとつであったことをヘイは知る。
やれやれと嘆息して立ち上がる。ぱらぱらと、もはや何に費やしたかも定かではない破片たちが服から落ちた。
乱雑にそれらを払い落とし、彼もまた前へと足を踏み出す。研究を続けるために。あの愚かな男に、世界の常識を、定説を欺いて道具による癒しを差し出してやるために。
それは興味である。好奇心である。どこか破滅への願望にも似た、未来への希求である。
動き出した異なる者に、その先が何も見えないことに、今一度ヘイは一人笑った。
――すみません、ここはどこですか? 何月何日の、今、何時ですか?
それが奴の、最初にヘイに向かってしゃべった言葉だ。
今こうして思い返しても、なぜあの日、奴を拾おうと思ったのかはよくわからない。というより、きっと特に意味などなかった。ほんとうに、ただの気の迷いだった。
誰だろうが、なんだろうが、もうとっくに、何もかもどうでもよくなっていたはずだった。
思い返すたびに笑えて来る。ああ、なんとも「らしくない」ことだった。ヘイという、適当にただ惰性のまま命を、日々を消費するだけの男には、まったく似つかわしくない善行をした。
それこそクラリオンへリョウを放り投げたときなど、店の奴らの目はあからさまに奇獣へ向けるそれだった。苦いような甘ったるいような、ひどく据わりの悪い感覚に喉がイガついたものだ。
そもそも、転がっていた時点で浮いていた。
起こし、喋らせ、歩かせてみれば、なおさらにリョウはすべてから浮いた。その浮きざまたるや、ただの異国の流れ者であるヘイの比ではなかった。絵の中に何かが落ちた、完成した後の図の中に、違うものが落ち込んだ。このあたりでは珍しい黒髪黒目という外見の特徴も相まって、リョウは目立ち過ぎた。
リョウは自分を、イガクセイというものと名乗った。
魔力のかけらもにおわせない男が、人を癒やす学問を修めるための高等学術機関に通っていたのだと言った。
どこの異世界の絵空事かと、普段であれば、即座に一笑に付しただろう内容だった。
だがそう語るリョウからは、一切の嘘が見えなかった。そもそも警戒心もなく、二十三という年齢の割に、あまりにも素直すぎた。
幸福な高尚な性善説に、生きていたと言われて納得してしまった。
大して楽しくもない過去の中で、ヘイという男はそれなりに多くの嘘を、偽りを使い、使われ経て生きてきた。虚構と謀略、侮辱と窮乏、あっという間に天から地の底へと落下する人間を、数多く眺めてきた。
リョウは、あまりにもそんなものたちから断絶していた。
異世界からの迷子。図体はでかい男にどうかとも思うが、結局こんな表現が一番しっくり来てしまうのだから、まあ、もう仕方がない。
「イシャ、ねえ」
ヘイとて初めから信じたわけではない。
ただ、魔力の測定を行ったとき、あまりにもはっきりリョウは絶望した。無魔には決して手の届かぬ「高みの存在」たる治癒魔術、他者を、傷病を癒すということ。自分にはできないのだと、絶対に無理な話なのだと、知ってしまった瞬間の、銷魂の深さと強さ。
嫌だと絶叫する本能と、どうしようもないと、わかってしまった理性が混乱する黒い眼の中でせめぎ合っていた。それをおもしろいと思った。たいへんな異常だった。ヘイは、今までに一度も見たことがなかったものだった。
だから手を伸ばしたのだ。
愚かにもヘイという魔具師は、禁忌に。
「バッカじゃねェの」
もう一度の言葉は、何に向けたものか。
おのれがここ数年で一番生気にあふれていることを、昂揚していることを、期待していることを、とうにヘイという男は知っている。




