5. 闖入者
「……うっそだろ」
そして翌日。俄かには認めたくない現実に、もはや椋は絶句するしかなかった。
椋は今、王都アンブルトリアの中央図書館に訪れていた。目的はもちろん、治癒魔術関連の蔵書であった。
しかし彼の目の前にあるのは、全体を百とするならば、……いや、全体を一万として、ようやく五あるかないか、がいいところだった。
広々と豪勢な図書館の、本当に隅の隅にそれらはあった。
使う人の絶対数が少ないんだろうことが容易に想像できる。ちょうど椋の背くらいの高さと、八十センチほどの幅の決して大きくはない本棚ひとつ。それが、この中央図書館における治癒魔術関連の蔵書のすべてであった。
そんな馬鹿な。
思わず呟いた椋の言葉を、しかし案内してくれた司書は逆の意味で解釈したらしかった。
「すごいでしょう? 治癒魔術関連の本だけで、棚がひとつ埋まるのは世界広しと言えど、このエクストリー王国中央図書館だけだと思いますよ」
「は、はあ」
「では、ごゆっくり。くれぐれも本は大切に取り扱い下さいね」
呆然とする椋をよそに、ひとつ礼をして彼女は去っていく。
ひとつ深々と息を吐いて、気を取り直して椋は改めて前を見る。まず誰でも手が届くようなところに情報があるだけいいだろう。医術が一子相伝の秘だったりはしないのだ。難しいものはともかく。
考えつつ、総論が手堅くまとめられていそうな一冊を選んで本棚から抜いた。
軽く七百五十ページくらいはありそうだ。手にしただけでずしりと、紙媒体特有の重さが椋の手首に伝わった。
「……うーわ、やっぱ古い上にぜんぜん借りられてないな」
いかめしく派手な表紙をめくって中を見てみれば、版は当然のように初版、発行の日付は軽く三十年以上も前だった。ついでに言えば、最後の貸出日付も五年前になっていた。
微妙なほこり臭さと、古書特有のどこかカビ臭いようなにおい、ページは全体的に黄ばんで、縁がところどころぎざぎざになっている。
ざっと目次を確認する。見る限り、内容的にはこれでよさそうだ。しかしどうせ読むなら、机と椅子があるところでしっかり、自由にメモが取れるような状態で読みたい。
ここまで案内される途中には、備え付けの机と椅子がたくさんあった。数の割にあまり人が使っている様子がないのは、今がまだ学生の試験期間ではないから、らしい。試験近くになると、普段は解放していない上の階も学習室として開放するんですよ。妙におしゃべりな司書は、笑顔でそんなことを言っていた。
本を小脇に少し歩き、適当な椅子を選んで座る。
ヘイお手製のウエストポーチから、真新しいペンとノートを取り出す。ノートの一ページ目を開きながら、あっちじゃ二十年どころか十年、いや五年前に刊行された本だってほとんど手をつけなかったなぁ、と椋は思った。
何しろ医学の世界は未だに、日進月歩である。
少し前の教科書であっても「まだ解明されていない」「原因は不明」とする記述が当然のようにある。現在のスタンダードとは、全く逆のことが「標準治療」とされていることもままある。今現在標準的に行われている治療が、未来ではなくなっている可能性だって大いにある。
さまざまなものが、日々、刻一刻と変わっていく世界だ。試験の過去問を解いていると、数年前は正解だった選択肢が今では間違いになっていて、正解が「なし」だということも何度もあった。
しかしこの本を見る限り、この書物の版を更新する必要はないらしい。改訂すべきことは、ないらしい。
いやまあ今、俺が知りたいのは基礎の概論的なところだし。
釈然としないものを感じつつ、分厚い本を改めて椋は机に置き、ひらいた。
「……さて」
慣れない古書のにおいと黄ばんだ頁に何とも言えない気分になりつつ、椋は持ってきた本をめくる。
どうしてこの世界には「治癒魔術」が二つあるのだろう。祈道士と創生士、どうして、二つの職業が別の魔術を使って治療をするのだろう。
他の誰でもなくあいつが、他の何でもない「医療」に関する設定を適当に意味もなく分割するはずがない。椋に読ませたいと言っていた。読んで面白がってもらいたいと言っていた。伝えてくる目が真剣だったのを覚えている。家がとんでもないことになったあの日は、おそらくあいつが「そういうこと」を決めた日だったのだろう。今思えば。
おまえ、なにを見た。
問いかけるべき幼なじみは、残念なことに、ここにはいない。
「……基本式を、以下に記す」
本に書かれている文字は、日本語とは全く違う知らない文字だ。だが、なぜか読める。椋はその意味を理解することができる。
言葉の不便を、椋は感じたことがなかった。何の苦労もなく言葉は通じるし、きちんと意識してさえいれば、この世界の文字が普通に書けるし読める。
こんな力が対:英語でも発揮できたら、英語の論文やら教科書も全然辛くないだろうなぁ。つい考えてしまう椋であった。
「……ええ、と」
どうでもいいことを隅では考えつつも、わりに真面目に椋の思考の大部分は動いている。カリカリと、ノートの上を進むペンの音だけが小さく響いた。
調べようとすればするほど、着々と時間は過ぎていく。
治癒魔術二種、それぞれの起源から今に至るまで。そして、それぞれの得意/不得意とする分野。
それぞれの術式に関しては、なんとなく意味は分かるものの、どうにも奇妙な装飾記号がごちゃごちゃに混ぜ込まれた、不格好な模様の集合体にしか椋には見えなかった。もっと綺麗にする方法があるんじゃないだろうかと、きちんと理解をしているわけでもないのに思ったりした。
しかも同じような症例に対して行う魔術の術式でも、祈道士と創生士、ふたつを見比べてみると何か違うような気がする。あくまで気がする、としか言えないのは、それぞれの頁を行ったり来たりすることでしか、椋には比較ができないからだった。
今ほどコピー機が欲しいと思ったことはない。コピーして二つ並べて見れば、何が違うのか、何があって何がないのか一目瞭然なのに。
まったく違うということであれば、その意味合いそれぞれを、それぞれの教科書から地道に追っていけば、多分、
「……ったく」
だからと言って複雑怪奇な術式、という名の複雑怪奇な模様をノートに写し取る気も起きない。これから自分のやらねばならない作業の膨大なる地道さに、椋はげんなりした。
ひょいと近くの時計に目線をやる。既に時刻は昼食の時間を大幅に過ぎていた。椋の感覚で言えば、おやつの方が近い時刻である。この世界の時計が、時間の表現方法以外は椋の慣れ親しんだ六十進法であることに気づいたときは、正直安心した。
相当集中していたらしい。ノートとペンを手早く片付け、椋は立ち上がる。ぐう、と、まるで見越したかのようなタイミングで腹が鳴った。
図書館利用者用の食事スペースがあるので、もしお腹が空いたときには自由に使って下さいね。
やはり先ほどのおしゃべりな司書が説明してくれたその場所に、椋はひとまず足を向けた。
「……静かだなあ」
ウエストポーチから取り出したお手製サンドイッチをほおばりつつ、椋以外ほとんど誰もいない周囲を見やる。
頼んだコーヒーを一口飲み、次のひとつに手を伸ばそうとしたところで、不意に横から伸びてきた別の手がひょいと「お目当て」を攫った。
「え?」
唐突な乱入に目線を上げる。サンドイッチ泥棒の手は、どっしりとした大柄なおっさんに続いていた。
骨ばった大きなその手が掴み上げたたまごサンドは、あまりに無造作におっさんの口の中へ放り込まれた。もぐもぐと口全体を動かすようにして何度か咀嚼して(一口で食べ切れてしまうようなかわいらしい大きさにはしていない)、ややあって少し驚いたように、目前のおっさんは目を見開いた。
ごくんと、くっきり存在感を示す喉仏が上下する。あんまりに堂々とした飯泥棒になにから言えばいいのか迷っていると、先に目の前の彼の方から声をかけてきた。
「うまいなこれ。なあ坊主、これ、もしかしておまえが作ったのか?」
「え、あぁ、そう、ですけど。それが何か?」
「いや、自前で食事用意してくる学生なら結構見てきたんだけどな、俺も。でもおまえみたいな弁当を作ってきたのは、初めて見た」
「あー、……えぇ……?」
いくら物珍しいからと言って、何の断りもなく他人の弁当を横取りする大人ってどうなのか。しかも取った後もなんでやたら堂々としているのか。
そもそもこの、服装からして図書館の人でもない知らないおっさんは一体誰なんだ。なんなんだ。
「って、あ」
「もうひとつもらうぞー。お、こっちは肉なのか」
「返事する前にもう取ってるし、このおっさん」
「お? 今俺のことおっさんって言ったな? まったく失礼な坊主だ」
「勝手に他人の昼食を横取りするおっさんのほうが、ずっと失礼だと思いますが」
ずけずけ言い放った椋に、目の前のおっさんはぽかんとして、次には愉快そうに吹き出した。
しかも何が彼の琴線に触れたのか、どうやらこのおっさん、二つ目のサンドイッチを食べ終えてもまだ椋の前に居座る気らしい。メニューを手に取ると軽く手を上げ、寄ってきた店員に向かって何か飲み物を注文していた。
ついでにそんな行動をしつつ、逆の手はまたひとつサンドイッチを勝手にボックスから掻っ攫っていった。ひどい。
「なあ坊主」
「なんですか?」
取られたサンドイッチの種類や数を考えるのも面倒になってきた。とりあえず腹七分目くらいは確保しておこうと、椋もボックスへ手を伸ばす。
今度のサンドイッチはハムとレタス。シャキッというレタスの音を立てつつ返事をすると、机に片肘をつき、もう片一方の手でまたサンドイッチに手を伸ばしながらおっさんは訊ねてきた。
「名前は。学生か?」
「水瀬です。少し調べたいことがあったので」
「ミナセか。変わった響きの名だな。名前か? 苗字か」
「苗字です。名前は椋」
「リョウな。しかし、……調べたいことがあるから来ただけ、ねぇ」
ふっと、瞬間妙な含みを声に感じた気がして椋は食事の手を止め顔を上げた。目の前のおっさんは、妙に楽しげな光を浮かべてじっと椋を見つめている。
どこか観察されているような目線に、わずかに椋は眉をひそめた。
「なにか?」
「いや? 別になんもねぇさ。ただ、それにしちゃ随分、熱心に治癒魔術の勉強をしてたなあ、と思ってな」
「な、」
さらりと、この場所での椋を見ていただけでは絶対に分からない事柄を口にされる。
目を開く椋とは対照的に、目の前のおっさんは相変わらずに妙に楽しげな顔で椋を見ているだけだ。首を振って、何とか冷静を心がけつつ再度椋は口を開いた。
「俺を、見てたんですか?」
「そりゃな。ただでさえ治癒魔術の棚に行こうとする奴なんて珍しい上に、到着した棚の前でも結構に悩んだ挙句、俺らはいいって薦めてんのに、分厚い上に古臭いからってんで誰も見向きもしねぇ、治癒魔術大全なんてのを当然のように持ってくじゃあねーか」
それは確かに事実であるが、しかし軽く三時間以上前の椋の行動の話である。
微妙に頭痛めいたものを覚え、椋はげんなりした。
「……そんなところから見てたのかよ、あんた」
「おぉ? コラ坊主、年長者は敬え、きちんと」
「敬って欲しいなら、年相応の態度をまず俺に取って下さい」
「はっは。ま、そりゃあそうか。確かにな」
憮然と言葉を返せば、それの何がおかしいのか、むしろそれこそがおかしいのか。ぐしゃぐしゃと、まるで子供にするように乱暴に頭を撫でられた。
既に成人している椋が、である。対応が大人げないのは認めるが、その結果としてなぜ頭を撫でられるのか。
しかもそんなことを考えている間に、サンドイッチはひとつ残らずなくなっていた。
一瞬、本気で代金請求を考えた椋であった。
「最初に見たときから、気になっちゃいたんだけどな。やっぱ坊主おまえ、面白いな」
「見ず知らずの坊主がなにをしてるか、ずーっと観察してるようなおっさんには言われたくないです」
「ああ、わかったわかった、確かに勝手に見てたなんざ、言われれば気分は良くねえよな。だがどうしたって気になったんだ、仕方ないだろ?」
あっさりおっさんは折れた。そして。
「なあ坊主。調べたいことってのは答えが出たか?」
「いいえ。むしろ分からないことが増えました」
「そうか。じゃあ、今からうちに来るってのはどうだ?」
「は?」
「ああ、そういや名乗ってなかったんだったな。俺はヨルド・ヘイル。王宮で創生士なんてもんをやってる」
「……はあっ!?」
あっさりけろりと名乗られた名前と、俄かにはとてもではないが信じられない職業。素っ頓狂な声をあげた椋に、さらに楽しげにヨルドは笑みを深める。
すべてを待ちかねていたかのように、状況が展開を始めようとしていた。




