序 止まった世界が語りだす
いろいろと気ぜわしく鬱屈しがちな日々の、少しでも気紛れになってくれることを願って。
――描かれなくなった物語の、つづきは、いったいどうなると思う?
音のない空間で夢をみていた。
風に吹かれたような気がして、ぼんやりと彼は目を開く。しかし瞳をあけても閉じても、前後左右がまるきりわからない。
そもそも今いるこの場所に、そんな概念が存在するのか。
ほんとうになにもないのかと、視線を、青年は四方へ彷徨わせる。
そこは、くらいが闇ではなかった。よくわからない「夢」の間は、黒とも蒼ともつかない不思議な色彩で満たされていた。いろが満ちているとわかるのは、この、異様な空間が、一色で塗りつぶされているわけでもないからだった。
青年が目をやる先々には、不規則で不思議なうねりが見えた。
瞬きが視界の端を焼き、脈を打つ、何かのかたちが刹那に縁取られる。だが手を伸ばしてもまるで届かない。少しでも見ようとするやいなや、まったく違うものが別の場所で、呼び声のように鋭利に閃いていく。
一度、一瞬でも目をそらせば、もう、二度と同じものは見えない。目まぐるしい微細の変化は続き、遠近感も、立ち位置も、そもそも今、自分が、まともにこの場所に立っているのかどうかもわからなかった。
ひかっているのに、うねりはあるのに、音は、温度は、感触はない。
耳が痛くなるほどの静寂、伸ばす手はすべて空を掻き、触れられるものは自分だけ。自分にあるはずの温度すら、あまりに大きく、途方もない色彩に圧倒されて感覚が分からなくなってくる。
仰ごうと、見下ろそうと変わらなかった。
まわってみようとしたところで、自分の方向がさらに分からなくなるだけだった。
思考が眩むほどの、うねりとひかりが不規則にあふれた空間のうちがわ。この目が見ているものはなんだ。絶えず流れていく、届きそうにも見えるのに絶対に触れないあれは何なんだ。きらきら、まるで星みたいに、流れ星が、落ちるみたいに、何かが弾けて生まれてこようとするかのようなひかりは、なんだ。
すべてが流れてかわっていく。
最中にあるはずの青年だけが、ただ、茫然と、在りつづける。
――なあ椋。今度の話はさ、絶対、おまえに読んでもらいたいんだよ。
声がしたのは、痛いほどの静寂に青年が耳を塞ごうとした瞬間だった。
りょう。おとされた言葉を青年は反芻する。ふわり、そのとき足元で、青年の視線の先で、ひかりが並びを変えた。うねりが新たに、そこに生まれた。りょう、りょウ、リョウ、椋。目まぐるしく組み変わるパズルのように、次々浮かび上がっては消えていく。
それは青年の名前だった。
青年の実在を、確定することばだった。
さらに、見る先でひかりができる。光はつぎつぎ紡がれ連なり、細く長く、記号となり文字になっていく。彼に意味をなすものとして、まるで削りだされるように、浮かび上がっていくように、青年へ向かって、瞬きをする。
思わず彼は手を伸ばした。指先でなぞって、よみあげた。
――我が悪友にして親愛なる、宿主R.Mに半分だけ捧ぐ。
「……半分って、なんだよ」
青年は――水瀬椋という名の青年は笑った。
わらい、ひびき、呼応するように、ふうとそのとき風が吹いた。それは彼へ吹き降ろすようにも、彼から吹き上がるようにも思える、不可思議の風だった。
誘われるように、ゆっくりと椋は顔を上げた。そうして、頭上に広がる光景に息を呑んだ。
景色が、世界が変わっていた。
空間を満たす黒か、青か、何ともわからない色は変わらない。だが、ひかりが、色彩が絶対的に違っていた。目が迷うほどにきらめいていた。うねり、脈打つ、紡がれるものが、星空よりももっと多く、もっと緻密に、色を変えて、今にもあふれそうなほどの存在を湛えていた。
瞬きで変わっていくそれは、人の、モノの姿であり光景だった。
たくさんの人間の、それぞれの、生きていく時間の流れだった。
限界まで彼が目を開いても、到底すべては収まり切らない。見る先には祝福があった。片隅に祈りがあった。あるところに願いがあった。なにかが生まれ、あるいは死に絶え、喜怒哀楽に浮き沈み、希望、絶望、幸福、不幸、――めまぐるしく回転するうねりがゆく中、それぞれが紡いでいくものがある。
光り輝いて、やがて消える。それぞれの存在の、ありかただった。
椋は、何も知らなかった。知らない、知らないはずだった。
なのに、願われていることだけ、確かに思われていることだけ、なぜか当たり前のように、すとんと、彼の腑に落ちた。
「……じゃあ、おれは」
何をしてやったらいい。
小さく笑って、声を落とすように椋は問いかけた。
なにもしらない空間で、呼応するように一際、ひとつが強く輝く。
金と銀の色をした星に、命の焔のようなひかりに、彼は、そっと、手を伸ばした。
たすけて。
閉ざされてゆく世界の中で、ひとり、願ったこどもがいた。
どうする。
だからこれは、その声に応じた、あるひとつのこころのつよさの物語。