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void  作者: 秋花
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前編

 部品を磨くのが好きだった。

 専用の布で表面を擦ると、曇りが薄れて銀色の反射板がトッドを映す。豆電球に照らされているのは特徴のない男の顔だ。二十五年間共にしているが、好ましいともそうでないとも口にされたことはない。

 表面の傷を削る。削れば滑らかになる。部品は素直だ。だからトッドは部品売りの仕事をしている。

 段ボールに敷き詰められた部品の集まりに、また一つ高い山を作る。傷をつけると店長が目を怒らせる。怒るぐらいなら乱雑に置かなければいいのにとは思うが、トッドは口にしない。

 ドアが軋む音がした。照明がかかせない狭い店内に人が入る。来客がきた。


「こんにちはー」


 扉の隙間から顔を覗かせたのはアデールだった。豊かな金髪が肩から零れ落ちる。トッドは慌てて手元に視線を落とした。目を合わせるところだった。

 足音がする。木の板が軋む。近づいてくる。動悸がする。


「お昼をもってきましたぁ」


 カウンターに置かれたのは紙袋だ。彼女が開けてみせると、焼きたてのパンの匂いがした。正午になったことに気づいた。彼女はパンの配達にきたのだ。


「あ、あありがとう」


 トッドは吃音症だ。きちんと言葉を発していようと、うまく声がでない。親類にさえ笑われ、コンプレックスにもなった障害は彼の口を閉ざせ、話し方を忘れさせた。


「今日はパリジャン。それと、トッドさんの好きなクルミ入りです」


 穏やかな声が気にかけてくれる。トッドは部品を磨く手から目を離さずに頷いた。

 既にレジに置いてある勘定の袋を確認すると、アデールは「じゃあまた」と言って出て行った。パンの甘い匂いが店内に残された。

 肩の荷が下りたのか、全身が弛緩した。息を吐く。


「よう、意気地なし。今日もまた口説かないで見送りか?」

「――!」


 唐突に叩かれた肩への衝撃に声にならない悲鳴が漏れた。


「え、エディ……っ」


 友人のエディが慌ただしい音を立ててパンの袋を漁り始める。


「お、クロワッサンあるじゃあねえの。さすがはアデールだねえ。俺の好みもわかってる」

「あ、アデールは優しい、から」

「そうだなぁ。他にもたくさん狙ってるやついるぐらいだしな」


 さくり、クロワッサンを齧る音がする。

 トッドにもわかっていた。言葉もまともに発せられない。目も合わせない。そんな男が、彼女の目に入るはずがない。彼には自分の価値が十分にわかっていた。

 トッドの癖毛をエディの大きな手が撫ぜた。


「なぁにしけた面してんだ。そういう時こそ俺に任せろよ」

「いっ、いいよ。めっ、迷惑だよ」

「本当にそうか?」


 多くは望まない。彼女が勘定の袋を持っていく時に視界に入る手と、穏やかで優しい声だけでいい。それだけで、トッドは満足なのだ。彼女に見てほしいなんて、分不相応なことは考えない。

 なのに、そうだとは返せなかった。


「トッド、お前は優しい男だ。何なら優しすぎるくらいだ。いいとこだが、それだけじゃ女は寄り付かん。だから俺がなんとかしてやる」


 エディは頼りになる男だ。快活な笑みは、こちらの悩みすらも吹き飛ばそうとしていた。気づけば、トッドは頷いていた。

 彼には行動力があった。店のカウンターで待っていれば、エディが変わらない調子で肩を叩いて『デートの約束を取り付けた』と言うのだ。友人のいないトッドとは真逆の性質だった。


「俺は別に何もすごくないさ。お前がやらないことをしているだけだ。だから、お前もやれば同じようにできる」


 褒めるトッドを軽く笑って、彼はまたトッドにできないことをするのだ。



 その日、トッドは落ち着かない様子で待ち合わせをしていた。人通りも多く、待ち合わせ場所に選ばれることが多い広場の中央に彼は立っている。

 明るい陽射しは久しぶりだった。仕事場は地下にある。日中は仕事場に籠りっきりで日に焼けることもない。

 遠くに豊かな金色が見えた。アデールは美人だ。少なくとも、トッドが知る女性の中でもとびきりの美人だ。


「おはようございます」


 にこやかに笑みを浮かべる彼女が下から見上げてくる。赤く塗られた唇が視界に入って、咄嗟に目を伏せた。どもりながら挨拶を返す。

 何を話せば喜んでくれるだろう、目線はおかしくないか、今のは迷惑な発言じゃなかったろうか。ぐるぐる彼女の反応ばかりが頭の中を回転して、一瞬で真っ白になる。

 カフェに入る。食事をする。彼女の皿に乗ってるのはハムとマフィンを重ねたエッグベネディクト。トッドの皿にはハンバーガー。彼女の指の動きを目で追う。皿の底は一向に見えない。食べているものの味がしない。

 何を会話したのかも記憶が曖昧だった。目の前の綺麗な人の挙動に対応するので精いっぱいだった。エディだったらどうしただろう。彼ならきっともっと上手くやる。


「あの、今日は喋らないんですか?」

「えっ」


 喋る? 喋るってなんだ? 声が小さかった? それとも話すのが下手すぎて喋ってるうちに入ってない?

 意図がわからなくて戸惑った。トッドは相手の心情を読むのが得意ではない。


「ど、どう、いう意味、で、っですか?」


 なるべくどもらないよう、トッドは言葉を一つ一つ区切って話そうとした。息が詰まったような話し方になる。自己嫌悪で身が焼けそうだ。

 彼女は頬に手を当てた。膝の上で拳を握る。


「いえ。緊張してるのかと思って。もっと肩の力抜いて話しましょう」


 息が苦しくなった。彼女の考えはわからない。優しさに触れる度に胸が痛くなった。目も合わせられない男に、こんな女性と話す価値はあるのだろうか。


「人には人の歩幅があるんです。だから、あなたはあなたの歩き方で歩み寄ればいいんですよ。話したいように話してください。私は嫌じゃありませんから」


 目線を上げると、変わらない笑みを向けてくれる彼女がいた。熱いものが胸に溢れて喉が渇く。

 その優しさを受け取るには自分は分不相応だ。だが、もっと彼女の優しさに触れたい自分がいるのも事実だ。受け取ることばかりを考える。


 ――綺麗な手ですねぇ。


 部品を磨いてばかりで鉄臭い指を彼女は褒めてくれた。なんとかこの嬉しい気持ちを返したくて、彼女を目で追っていた。一番初めに気づいたのはエディだ。エディは頼りになった。トッドの叶わない恋路に気づくと、すぐさま協力を申し出てくれた。

 だから、何度目かの食事で彼女が赤らんだ顔でエディの名を口にした時、トッドはどうしたらいいのかわからなかった。

 いつもだったら彼女に手を振り、表情の一つ一つを思い返して反芻する至福の帰り道だった。だが、この時ばかりは自分のものではない表情の彼女ばかりが脳裏を過る。思い出したいのはトッドに笑いかけてくれる彼女なのに。

 駆け足で店まで向かった。早足に石削りの階段を駆け下りて店内に入る。カウンターにはエディが座っている。今日は休みだ。店内の明りは、彼の端正な顔を照らす豆電球だけだった。


「え、エディっ……」

「おう、おかえり。今日はどうだった? うまくいったか?」


 その様子だと変なことを言ったんだろう。大丈夫だ。安心しろよ、俺がなんとかしてやるさ。お前はここに座って待ってればいい。そしたらアデールとまた会えるさ。ん? どうした。怖い顔するなよ、なあ。

 いつものように笑って、立ち上がったエディはトッドの肩を叩こうとした。 


「わ、笑うなよ」


 エディの手が止まった。


「ええエディにはわからない。い、今俺がどれだけ悩んで苦しんでいるのか、わ、わからない。なっな、のにそうやって笑われる、のは、俺の問題が、まるで簡単なものみたいで、いっ、意味がないみたいだ」


 違う。自分の喉を掻きむしりたくなった。これは正当な怒りに見せかけた八つ当たりだ。

 エディがトッドの肩に触れた。彼は申し訳なさそうにトッドを見ていた。


「すまなかった。そういうつもりじゃなかったんだ。ただ、お前がつらそうにしているのが見ていられなくて……」


 ――勘弁してくれ。

 エディは良心の塊だ。良心の否定はこちらを悪役にする。優しければ優しいほど否定がしにくくなる。何度もトッドを救ってくれた優しさは、今では誰よりもきつく絞め殺そうとしてくる縄だった。

 トッドは店の扉を指差した。


「……し、しっしばらく、お、れに、関わらないでくれ」


 エディは動かない。肩の手が下りる。彼は、しばらく黙ってから口を開いた。


「…………トッド、忘れるなよ。俺はお前の兄ちゃんだ。俺は、助けるのをやめないぞ」


 ぎぃと、音を立てて扉が鳴った。閉まり切らなかった扉の隙間をトッドが閉め直した。







 ベルの音が鳴る。仕事着のエプロンに身を包んだアデールが目に入る。トングを手にしていた彼女は焼きたてのパンを配置していた。

 手を上げる。昼のパン屋は盛況だ。トッドは少し早い時間帯に訪れていた。パンの焼けた匂いが胃袋を刺激する。

 アデールがトッドに気づくと、目を見開いた後に嬉しそうに笑ってくれた。


「こ、こんにちは」

「こんにちは! お店までいらっしゃるなんて珍しいですねぇ。今日お休みですよね。どうしたんですか?」


 笑顔を向けてくれる彼女が眩しくて、視線があっちこっちへ移動する。ぽつぽつと来店している客が、パンを選んではトレーに置いている。


「あ、あ、あい……」


 会いに来たんだ、と言い切る前に店の中からアデールが呼ばれた。彼女の快活な返事が店内に響く。


「ごめんなさい。また後で……あ、トッドさんが好きなクロワッサン! 焼きたてですよ!」


 ぱたぱたと店の中に入っていく彼女の後ろ姿を見送る。トッドは緊張で握りしめていた両手を力なく開いた。棚に並んでいるパンを見る。彼の好物は並んでいなかった。店の外に出る。

 空は曇天だった。


 トッドはエディが頼りになる男というのは知っているが、どこの誰かは知らなかった。

 彼はある時からトッドの兄貴分を名乗り始めた風来坊だ。気づけば隣にいて、トッドの話し相手になってくれた。緊張せずに話ができる初めての相手だった。

 気分転換に酒場に行けば、誰も彼もが「兄貴は元気か?」「エディは次いつ来るんだ?」と口にする。

 自慢だった。まともに人と交流できるのはエディがいる時だけだったからだ。

 通りを歩く。階段を下りる。店に入る。カウンターに座る。客が来る。そして、顔見知りの客が口々に言う。


 ――エディはいないのか?


 誰もトッドに話しかけていなかった。エディに話しかけるためにトッドを使っていた。

 エディは人目を惹きつけるトッドの兄貴分だったが、トッドはエディの弟分でしかなかった。アデールにとってもそうだったというだけだ。

 エディがいるからトッドに価値が生まれるのだ。彼自身に価値はない。どれだけ悩もうと、苦しもうと、彼自身を見る人はいない。

 エディに頼りきりで生きるのか、それは、トッドが生きることを放棄するのとどう違うのだろう。

 店を閉めたトッドは、横断歩道の前で色が変わるのを待っていた。他に待ち人はいない。

 目を細めて道路の向こう側を見ていた。長い建物の間に沈む夕日がコンクリートの地面を舐めていた。トラックが陽射しを遮って彼に向かってくるだなんてまったく予期していなかった。

 強い衝撃だった。避ける暇もなかった。朦朧とする意識の中、目の前でタイヤが動きを止めた。誰かが降りて、近づいてくる。トッドの目の前で膝を落とした。


「よう、大丈夫か?」


 耳に馴染んだ、エディの声だ。

 声は出せなかった。正確には声が出なかった。


「そりゃそうだ。返事なんてできるわけねえ。こりゃあ俺が悪い」


 トッドの顔にエディが触れる。両手で頬を抑えてエディの顔を見つめさせられる。緑の目の中に血まみれのトッドの顔が映っている。体の感覚がない。


「いいか。トッド、俺を見ろ。そうだ、目に刻み付けたな? お前の脳に、俺を刻み付けたな?」


 目の前が真っ白になって次第に暗くなっていく。エディの声だけが鮮明に聞こえる。


「兄ちゃんが助けてやる。だから、目を閉じて、真っ暗な中に沈むんだ。ゆっくり――ゆっくり――」


 声が水面から浮かんでいく。自分の身体が沈んでいくのを感じた。全身が冷たい。

 ――光が、とおい。

 水面の向こうに光が去っていく。縛りつけられたように暗い海の底にトッドは沈んでいく。


「愛してるよ、最愛の弟トッド。兄ちゃんはずっと一緒だ。怖いことなんてないさ。今までも、ずっと一緒だったろ」

 なら、これからもずっと一緒に決まってる。


 その言葉を最後に、ぷつんと意識は切れた。


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