第21話
「す…昴…」
馨が途切れ途切れに名前を呼ぶと昴は心配そうに目を細めた。そして馨と同じ目線までかがむと、馨の顔に手を添え涙の跡をなぞった。
「馨、どうしたの。涙の痕がついてる」
「どうしたのはこっちのセリフだよ!今までどこいたの!」
「あ、それは…」
「私を置いて…また居なくなるの…?」
今までの強い語調とは一転、馨は声をふるわせた。
「泣かないで、お願いだから。私は居なくならないから大丈夫だよ。もうどこにも行かないから」
「き、昨日の夜…居なかった…なんで」
「ごめんね」
「なんで謝るの…?」
「昨日の件に関しては私が情けなかったせいで馨に迷惑をかけてしまった。私が、私の決心が、まだきちんとしてなかったんだ」
「…うん」
「でも、今は違う。馨に、伝えたいことがあるんだ」
「私に…?」
そう言うと昴は目を細めて笑った。
そして自然な動きで馨の涙を拭うと、改めて馨の方に向き直って口を開いた。
「馨………あ、その前に」
「…は?」
思わず涙も引っ込んだ。すごく大事な話をしてくれそうだったのに、凄まじいタイミングで話の腰を折ってくれるものである。
「いや、ちょっと待って。本当にごめん、ちょっとだけでいいから待って」
「う、うん」
「会ってほしい人が居るんだ。会ってほしいっていうか向こうが会いたがっているんだけども」
「わかった」
昴に手を引かれて連れてこられたのは、神社の裏の森、玉藻御前の結界の前だった。
「……?」
「この中に居るんだ。行こう」
「うん」
馨には結界はわからないので森にしか見えないのだが、結界に足を踏み入れた途端に一変した周りの風景に瞠目した。
「ここは…?」
「私よりもずっと長く生きている狐、玉藻御前様の結界の中だよ」
「玉藻御前…御前様…。なんかここ平安時代の屋敷みたい」
「玉藻様は平安時代が一番居やすかったそうだから」
「へえ…これって本物なの?」
「玉藻様が、私たちを化かしているんだよ。これは玉藻様が見せている幻覚」
幻覚にしてはあまりにもリアルすぎる。馨は思わず辺りを見回した。畳の匂いも、肌で感じる空気も、現代とは違った雰囲気で幻覚とは思えないリアルさだった。
昴に連れられ歩いていると、いつの間にか目の前の襖の両端に小さな狐が座っていた。
「玉藻様の御成にて」
「そちらにお控え願います」
狐が襖に手をかけた瞬間から、その場に緊張が走る。馨も思わず体を強ばらせた。
「…そなたが松月の娘か」
襖が開けられ、正座する馨の目の前に現れたのは御簾と行灯だった。後ろには金の屏風が立っている。御簾越しでも馨は今までにないただならぬ気配を感じていた。
「はい。松月馨と言います」
「…天狐」
「はい」
「わらわはこの娘と話がしたい。しばし外で待て」
「…わかりました」
心配そうに馨を一目見た昴は一礼し退席した。襖のそばにいた狐たちもいつの間にか居なくなっており、そこには玉藻御前と馨しか居なかった。
「そう身構えずとも良い。楽にしろ」
「…はい」
「改めて名乗ろう。妖狐が頂点、空狐。皆には玉藻御前と呼ばれておる。好きに呼べ、松月の娘よ」
「はい」
「…あの天狐に気に入られているようじゃのう。そなたはあの天狐をどう思っておる?」
2人だけになったからか、先ほどより幾許か柔らかい口調にほっと一息ついた馨だったが、いきなり核心をつく質問に一瞬詰まった。
「何、どう思おうがわらわは構わぬ。誰にも話さぬ」
「…はじめは驚きました。いきなり嫁にこいとか言われて…。でも、いつも一緒に居て私はとても安心しました。一緒に居ると心が安らぐんです。それは、私が彼を好きだからだと思っています」
はじめはたどたどしい口調だった馨だが、最後には御簾を、玉藻御前をしっかり見据えて言った。
「…いい目をしておる。そうか、天狐も随分そなたを気に入っていたようだが逆もまた然り…。恋情は何よりも不確かであるが逆に何よりも強い」
玉藻御前はここでゆったりとため息をついた。
「娘よ、だからこそわらわはそなたに話さねばならぬ事がある」
「なんでしょうか…?」
「…天狐の過去についてじゃ」
馨は嫌な予感を感じながらごくりと唾を飲み込んだ。
2019/10/21 転載及び修正