第16話
翌朝になっても昴が私の目の前に現れることはなかった。
「天狐様、大丈夫かしらね」
お母さんが心配そうにしてるけど、いま私も心配だと言ったらなんだか不安で胸がはち切れそうで、誤魔化すようにマグカップのコーヒーを飲み干した。
「…大丈夫でしょ。じゃあ私学校行ってくる」
「いってらっしゃい」
「いってきます」
「…天狐様がいないだけで馨も人が変わったみたいに元気がなくなるのねえ」
私が出て行った後でお母さんがそう口にしていたのを私は知る由もなかった。
「おはよう、馨!」
「おはよう」
いつものようにざわつく教室に入って、馨が自分の椅子に座ると、いつものように沙知絵が近寄ってくる。が、馨のただならぬ様子を見て顔を覗き込んだ。
「どうしたの、元気ないじゃん」
「うん…。昨日いろいろあって…」
「もしかして彼…」
「おはよう、馨先輩」
教室で沙知絵の言葉を遮って馨に挨拶してきたのは千尋だった。
「お前、相田か!」
「おはようございます、進藤先輩」
「馨はちょっと元気ないんだ。そっとしておいてよ」
「元気がない?ああ、昨日あんな事言ったからびっくりしたんでしょ」
「あんな事?」
馨抜きで話はどんどん進んでいく。馨にしてみれば差し当たり今一番会いたくない相手が目の前にいるのだから口を噤んで当然だろう。
「先輩、俺の彼女になってくれるんだよね」
「は、ちょ、えええ?あんたそれはいきなりすぎるでしょ!」
「いきなりじゃないです。昨日も言いました」
「いやそういうことじゃなくて…」
もともと、馨と千尋は中学の時から交流があった。
千尋が困っているところに鮮やかに馨が助けに入ったのがきっかけらしい。馨に自覚なし。
千尋曰わく、仕方ないから今度は俺が先輩を守ってあげるよ。
それがなぜか昨日の出来事に発展してしまった。思い返してみれば昨日の千尋はちょっと苛々していたように思えた。
馨にしてみれば、千尋に『守ってあげる』とは言われていたがまさかああいう意味での『守ってあげる』だとは思ってもみなかったのだ。
「ちょっと馨!あんた…」
「沙知絵ぇ…」
沙知絵の視線と問いかけは暗に昴の事をさしている。
馨が困ったように沙知絵を呼べば沙知絵はそれで何かわかったらしく、深いため息をついた。
「相田、もう時間だから教室に帰りな」
「それじゃあ帰りにまた来るね。先輩?」
「……うん」
千尋はニッコリ笑って馨の顔を覗き込むと、沙知絵に追いやられるようにして教室を出て行った。
「馨、ちょっとどういうことか説明してほしいんだけど」
「昨日、ご飯食べに行ったら会って言われた」
必要最低限の言葉しか発していない。沙知絵は首を傾げた。
「例の同居の彼氏と行ったの?」
「うん」
「それでそこで相田に会ったの?」
「うん」
「なんて言われたの?」
「…………好きだって言われた」
「っはあ、相田のやつ、同居の彼氏見て焦ったな」
「え?」
沙知絵の言葉に今度は馨が首を傾げた。
「いや、馨は知らないだろうけど相田って昔からずっと馨一筋だよ?」
「…何それ」
「中学の時から先輩先輩ってずっとくっつきまわってたじゃん。あれは誰の目から見ても明らかだって」
「そ、そうだったの?」
「まあ相田も意地っ張りだからなあ…」
沙知絵の言葉に今度は馨は絶句した。
なんだって?誰が、誰を、好きだっただって?
中学の時から一緒なのは何も千尋だけではない。沙知絵とも一緒なので、沙知絵も千尋のことをよく知っているのだ。
「同居の彼氏を見て、馨を取られたと思ったんじゃない?」
そんな沙知絵の言葉も耳に入らないくらい馨は驚いていた。この2日間で千尋関連のびっくりが多すぎるのだ。
「私…全然気付かなかった…」
「ま、千尋って頭いいからそういうの本人にはバレないように隠してたんじゃない?」
沙知絵にフォローされたものの、その日1日は授業は何も手に着かない馨なのだった。
2019/10/21 転載及び加筆修正