第11話
「行って来まーす!」
「気を付けるんだよ!」
馨を見送った昴はこれからどうしようかと考えた。正直な話馨が居ないなら家に居てもつまらない。
今日は馨の両親が外出するようなので昴も外を出歩くことにした。
人間の住む世界をしばらく目にしていなかった昴にとって外は新鮮なものでいっぱいである。
以前に人間界を実際に見て歩いたのは今から千年以上も前になる。その時が天狐として初めて人間と接触した時期だ。
「……かおる」
昴は久しく口にしていなかった名前を無意識に呟いた。
それはもうこの世に存在しない、過去の人。
あんな事になって以来、もう人間と関わるのはやめようと決めたはずだったのに。
昴には、あの時の事をまだ昨日の事のように覚えていた。
かおる。彼女は自分が初めて出会った人であり、自分のせいで死なせてしまった人である。
松月家が神主をつとめるこの神社は鎮守のためだけにあるのではない。彼女ーーかおるという女性ーーの鎮魂のためにも存在しているのだ。
だからこの神社には、普通の神社には無いような祠が奥に建っている。
そしてその"かおる"こそが松月家の一部が持つ見鬼の力の根源となった人でもあるのだ
ーーー遡ること千三百余年。藤原家が最も強大な権力を持ち得ていた平安時代において松月一門は、安倍晴明率いる安倍一門に次ぐ陰陽師の大家だった。
そしてその松月家でも陰陽師になれるのは見鬼の力を持つ男性だけ。
最も、当時松月家のその力は男系遺伝だったので女性は姫として安倍一門に嫁いだり安倍一門から婿をとったりと陰陽師の大家同士での結束力を高めていたのだが。
ところがある時、見鬼の力を持った女性が松月家に誕生する。これがかおるなのだ。
松月家はかおるを姫という身分でありながら巫女とし、あやかしから民を守らせることにした。
昴ーー当時は名もなき天狐であったーーがかおるに会ったのが、かおるが17歳の時である。
天狐がはじめてかおるに出会った時、彼はかおるにあやかしと間違えられたのである。
「くたばれ化け狐っ!」
「うわっ、ちょっと待ってよ!私は化け狐なんかじゃ…」
「お黙り!」
「うわっ、うわあああ!」
かおるの誤解が解けてから、天狐はかおるの部屋の御簾の前に座って傷の手当をしていた。
「…ああ、痛かった」
「いやあ、悪いね!まさか本物の天狐だとは思わなかったよ」
「だから私は何度も化け狐じゃないと言ったのに…」
「あっけなくやられんのも悪い」
人間とは境界があるあやかしの間でも松月家の巫女は有名だったので彼には彼女が松月家の巫女であるとすぐにわかった。
この時なぜか妙に打ち解けた2人は何度となく町外れの森で会うようになった。
何をするでもなく、他愛ない話で盛り上がるだけだ。
次に会う約束をするでもないのだが2人は自然に森に行ったし、森に行っても相手が居ないということは無かった。
この時代、普通の姫であれば1人で外を歩いてまわるなど到底出来ることではなかったのだが、かおるは巫女として都の治安を守ることも仕事の一環なのである程度は自由がきくのだ。
「時に天狐よ」
「なんだい?」
それはもう何度目か知れぬ、かおると天狐が森でのんびり談笑している時だった。
「お前には名があるのか?」
「…名?」
「うん。無いのか?」
「私は神社にいるわけでもないし、異形の者共の世界においてこの地方を治めてる天狐は私だから名は無くとも困らない」
「だめだめ!名にはその人の魂が宿るし、その名の言霊で数多の厄から守られるんだ。いくらなんでも名無しは困る。第一、私が呼べないじゃないか」
「それならかおるが名付けておくれよ」
「私が?いいの?」
力説するかおるに昴がそう言ってやれば、かおるは驚いた顔をした。まさか名付け親になるとは思ってもみなかったのだろう。
彼女の言葉には他意など無いのだと改めて思う。その真っ直ぐさが心地いいのだ。
「うん。そんなに大事なものなら、かおるにつけてほしい」
「……天狐、あんたこの地方じゃあやかしの頂点なんだって?」
「うん」
「それじゃあねえ…」
それから三年ほど経ったある日、かおるはいつも2人で会う森に来なかった。次の日も、その次の日も。
天狐は手下を使って都中を探した。勿論自分も持てる力の全てを使って国中を探した。
数日後、彼の手下からかおるを見つけ出したとの報告があった。
かおるは天狐と度々会っていたことを知られ、狐憑きと罵られ、彼女の巫女としての価値が下がることを恐れた松月の分家連中に押し切られる形で松月家の地下牢に閉じ込められていたのだ。
いくら天狐といえど、松月家に乗り込むのは不可能であった。それでもなんとか乗り込もうと隙を伺っていたのだが、その機会は叶わず、かおるは牢死した。
世間にも有名だったかおるの死は都に衝撃を与えた。但し、都の治安を守っていた巫女が狐憑きになっていたという事実は伏せられ、かおるの死は病死と公表された。
後に彼女の兄にあたる高名な陰陽師が、表向きは天皇と民のため、本当は彼女と天狐のために彼女と彼女が信仰していた宇迦之御魂神を祭神とする稲荷神社を建立した。そして天狐はその神社つきの天狐となり、今に至るのである。
神社の祠の側に座りながら昴はずっと目を閉じていた。何百年、何千年経ってもあの時の事を悔やまなかった事はない。自分がかおると親しくならなければ彼女は長く生きることができただろう。
自分のせいでかおるを、大事な人を死なせてしまった。
昴が神社に居る理由はただひとつ、かおるに対する贖罪のためである。
もう人間には関わらないで、見えない所からかおるの子孫を死ぬまで守ろうと決めた。
だがその誓いもある人物の誕生によって破られる事になろうとは…。
昴はため息をついた。何百年生きても自分の意志薄弱な部分は治らないものだ。
かおるは、こんな自分を見たら笑うだろうか?
………こんな事を考えていても仕方ない。今でもまぶたに焼き付いている彼女の面影を振り払うようにして昴はある場所に向かった。
2019/10/21 転載及び加筆修正