皇女の肖像
皇女の肖像
彼女はベッドの上で、立ったまま天を仰いでいた。
髪は黒く肌は蒼いほどに白い。絶望の表情を浮かべながらも、はっきりと美貌が見て取れる。白い肌を惜しげもなく剥き出しにした、胸元が大きく開いた赤いビロードドレスには華やかなレースがつけられ、アンダースカートにはサテン生地の光沢が見える。
その華やかな衣装とは裏腹に、彼女が寄りかかっている壁は黒く汚く、しみが浮きひび割れが走っている。
ベッドの布団の上に鼠が一匹、のっかっている。
床には汚水がたまっている。右上には窓が描かれ、水が激しくなだれ込んでいる。
床上浸水をしている。早く逃げればいいのに。
絵のタイトルを見ると「皇女タラカーノヴァ」とあった。
聞いたことがない名前だ。もっともあたしはロシア史にそんなにくわしくない。
同じゼミの友だちのナツキと、今日は神宮前の美術館に来ている。あたしの学校の校舎は渋谷にあるので、ちょっとしたお出かけだ。
2018年は、ロシアの帝政が絶えてちょうど100年なんだそうだ。そこでこの美術館では、「ロマノフ王朝終焉記念企画」というのをやっている。終焉を記念するって妙な感じがするが、ナツキに言わせると「王朝が滅んだことはある思想の人々にとってはいいことなんだよ」だそうだ。変なの。
「イワン雷帝と息子イワン」という、癇癪を起こして息子のイワンを殴り殺してしまい後悔のあまり息子の亡骸を抱きしめているイワンという皇帝の絵とか(どうしてわざわざ子供に自分と同じ名前をつけるんだろう)、姉弟ゲンカのあげく、窓の外の首つり死体をバックに腕組みをしてこっちをもの凄い目で睨み付けているボリューム感たっぷりの「皇女ソフィア」とか、そんな絵が続いている。ロマノフ家の人々の肖像画だ。
いきなり「ニコライ皇太子」という、若者の肖像が出てきた。なかなかイケメンであるだけでなく、どこか今風な感じがする。軍服が近代的だからだろうか。さらに、「皇帝ニコライ二世」という、お城をバックにした帽子をかぶった男の正面画が出てきた。
「この人はマイホームパパだったそうだよ」
ナツキが言う。
一時の怒りで息子を殺してしまう父親とか、まわりに死人を出すようなきょうだいゲンカとかそんな説明ばかり見ていたので、なんだかほっとした。
「この一家は皆殺しに遭うんだけどね」
はあ…。ため息が出た。
「1917年にロシアでボリシェビキ革命が起きて、捕らえられた皇帝一家は、ウラル山中のエカチェリンブルグのイパチョフという人の邸に監禁されたの。だけど1918年の7月、エカチェリンブルグは反革命軍に包囲され、陥落は目前だった。追い詰められた赤軍は、イパチョフ邸の地下室に皇帝一家を連れて行き、全員銃殺しちゃったんだってさ」
ナツキが、パンフレット知識を披露してくれた。
企画展の最後には、ニコライ二世一家の写真が展示されている。
父親は線が細い感じだ。唯一の男の子は、イケメンではあるがどこか不健康な顔つきに見える。男の子の肩に手をまわして正面を見ている少女。幼さと大人っぽい美貌がみごとにバランスを保っている。だけどどこかで見た顔だ。すぐ身近にある顔のはず…。ナツキが叫んだ。
「さくら! あんた、皇女アナスタシアにそっくりじゃない!」
「この渋谷という街は、他の都市にはない雑多性がある。これが、東京の他の街にはない魅力といってもいい。渋谷といえば、だれもが思い出すのがスクランブル交差点と、その正面にある109だよね。109といえば、二昔くらい前に流行したガングロファッションの発祥の地でもある。ガングロといえば、大人たちの目を背けさせるためのファッションであり、さらに109はゴスロリでも有名。ゴスロリは中二病の制服みたいに扱われることがあるけれど、もともとゴシックといえば黒を基調とした、死と病を表現したファッション。ガングロにしろゴシックにしろ、既成の権威への反抗の象徴といえるけれど、その109の目と鼻の先に忠誠心のシンボルともいえるハチ公像がある。さらにそういう南口の界隈に対して渋谷駅の東口にはシブヤ・イーストといわれる、文字通りの『閑静な住宅街』が広がっている」
あたしとナツキの通う学校の校舎はその「シブヤ・イースト」にある。
「建築物や街並みだけじゃなくて、渋谷系の音楽といえば、作者の自己表現という近代芸術の常識を覆すような存在だよ。作者が自分を語るのではなく、聴いた人が自分の好きな音楽を他人に紹介していく、必然的に『渋谷系』は雑多なものにならざるを得ないよね。この渋谷には、そういう『互いにとっては異端といえるものを互いに受け入れる許容性』がある。もっとも、渋谷という街のいちばんの『異端』な存在は、日本最大の近代西洋都市のど真ん中にありながら、『西洋化していく世の中に、日本の良さを残す』ために創られたうちの大学だろうけれど」
この子は、何を言いたいんだろう。原宿のファミレスでする話だろうか。
「その、渋谷の雑多性の象徴といえば?」
「何言ってるの?」
「雑多性の象徴といえば?」
「やっぱり、ハロウィンかなぁ」
「そう! ハロウィン! 『変態仮装行列』なんて言う人もいるけど、それを許容するのが渋谷らしさでしょう!」
「そうかもしれないけど」
「だから、今度のゼミのフィールドワークでは、ハロウィンに仮装して参加しようよ!」
「いいと思うよ。毎年出てるし」
あたしとナツキの所属しているのは経済学部の経営ネットワーク学科であり、ゼミではしょっちゅうフィールドワークをしている。
「だけじゃなくて、あんたには、皇女アナスタシアの仮装をしてほしいの!」
は?
その夜、牢屋に閉じ込められている夢を見た。
渋谷駅の東口を出て、急な階段を下り大きな通りに出た。
渋谷の街に雨が降る。
秋の長雨だが、それも悪くないと思う。
雨の音が好きだ。ナツキにそう言ったら「演歌の歌詞みたいだ」と笑った。
東京に住んで三年、高層ビルを見る機会も多い。
雨にけぶるビルを見るのが好きだ。
ほとんどがマンションだそうだが、その最上階の窓から雨を眺めたらどんなふうに見えるだろうと、夢想することがある。
ひとりベッドで目を覚ますと、雨が降っているのが見える。
窓に近づくと、ガラスにシャワーのような雨だれが降りてくる。
はるか上空から降りてきた水の棒がいくつもいくつも、地上に落ちていくのが見える。
テレビをつけて、行ったこともない土地のニュースとともに、雨がガラスを叩く音を聞く。
…無論、ただの学生のあたしが、そんな部屋に住むことは不可能なのだが。
あたしは、ビニール傘が好きだ。
みんな、「おしゃれじゃない」というが、半透明のビニールと雨水を通すと、見慣れた夜の街が幻想都市のように見えてくる。
大通りに出ると右に曲がった。左に曲がれば「渋谷ヒカリエ」という巨大なビルがあるが、右に曲がって進んでいくとだんだん雰囲気が変わってくる。コンビニやチェーンのカレー屋など、たくさんの店舗が並んでいるのだが、一つ一つはどこの地方都市にもありそうな個人商店だ。
渋谷川が見える。
「川」といっても、幅数メートルの、両岸というより両側をコンクリートで固められた水路のような川だ。都会らしいといえば都会らしいのだが、菊川市出身のあたしにはむしろかわいらしく見える。橋の前を通って左に曲がる。大通りを横切る。坂を登る。けっして急ではないが、長い上り坂がある。そこに入ると閑静な住宅街だ。
数百メートルそばの都会の喧噪など嘘のような、落ち着いた町並みが続いている。ここまで来ると歩いている人があまりいない。途中に一軒、昔ながらといった感じの雑貨屋がある。
オープンキャンパスで初めてここに来たとき、こんな街のそばに…、と感動した覚えがある。
さらに昇っていくと、民家を足下ににゅっと突き出るように建っている鉄筋コンクリートの建築物が見えてきた。むろんこの渋谷にはさらに高いビルがいくつもある。しかし小高い丘の住宅街に建っているため、はっきりと目立つ。外壁には大学名がここからでも読めるほど大きく書かれている。
さらに昇ると十字路が見えてきた。左側に大学の図書館と博物館、道を挟んで右側に校舎がある。
キャンパスに入った。左手に神社がある。雨に濡れた白い鳥居が見える。この大学に合格できるよう、オープンキャンパスに来る度にお参りをした。
奥に進んでいくと、背の高い自然石が二つ寄り添ったようなオブジェが見える。
「この間を通ると願い事が叶う」という噂を聞き、これも合格を願ってオーキャンのたびに間を通った。
キャンパスには石畳が敷き詰められていて、ほとんど凹凸というものがない。キャンパスの外では、履き古したスニーカーに水が入ってこないように水たまりをよけて歩いていたが、ここではその必要がなかった。
教室に入ると、ゼミのみんなが顔を揃えていた。教授はまだ来ていない。
ゼミのメンバーはもちろん知り合いなのだが、いつも話すのは、同じクラスのナツキと小林カズキという男子だ。
「だからさあ、カズキ。昨日いいことおもいついたんだよ」
ナツキがカズキに話しかけている。
カズキが眠そうに答えた。
「なんだか、オチで痛い目を見る漫画のキャラクターみたいなことを言い出したぞ…」
ナツキが、あたしの顔を見てぱぁっと表情を明るくした。
「さくら。待ってたよ! ねえカズキ、サクラの顔って誰かに似てると思わない?」
カズキ…、変なこと言ったらゆるさないからね!
「って言われても、わかんないよね」
カズキが答える前にナツキが言った。なんか残念。
ナツキが自分のスマホをカズキに見せている。
「これは…」
さっきまで眠そうだったカズキが目を見開いて、スマホとあたしの顔を見比べている。なんだかバツが悪い。
「だから、今度のハロウィンのフィールドワークでは、さくらには皇女アナスタシアのコスプレをしてもらおうと思って。本人もいいと言ってるし」
「ちょっと!」
「きのう、いいって言ってたじゃん!」
「言ってないよ! だいたい、ハロウィンっていうのは魔物がやってくる晩で、魔物に襲われないように魔物と同じ格好をするっていう行事でしょ。ただのコスプレ大会じゃないんだよ!」
「何言ってるの。あんたも知ってるでしょ。今のハロウィンって、ほとんどコスプレ大会だよ。それに、アナスタシアには、生存伝説があるの。皇帝一家がいなくなった八ヶ月後に、ベルリンで身投げをしようとした女が『自分はアナスタシア』だって言ったって事件もあったし。この人はアレクサンドルチャイコフスキーの子どもを産んでいるからチャイコフスキー夫人って呼ばれてた。ロシアでいちばん有名な作曲家とは何の関係もないけど」
「だから?」
「だから、魔物っていうなら、アナスタシアの亡霊っていう設定でもよくない?」
どこが「だから」なんだ。
「それにアナスタシアって、ロシア語で『再生』って意味なんだって。さくらの苗字に合ってるでしょう。鳳さくら。」
珍しい姓だがたまにある。与謝野晶子の実家の苗字だ。
「鳳といえば鳳凰。鳳凰といえばフェニックス。鳳凰座のことをフェニックスってギリシャ語で言うの。知ってる?」
聖闘士星矢からきた知識だな…。
「フェニックスと言えば、不死鳥、不死鳥といえば再生! やっぱりこれは、やるしかない!」
あたしはさっきと同じことを言った。
「ちょっと!」
カズキが言った。
「おれは、アナスタシアに扮しているさくらを是非見たい!」
ちょっと…。
「じゃあ、決まりね!」
あたしが来る前にナツキがカズキと打合せをしていたかもしれないと気が付いたのは、すべて決定してから五時間ぐらい後のことだった。
その日の夢でも、あたしは牢屋に入っていた。
薄暗い部屋の中にベッドが一つだけ。
机の上には水差しが置いてあるだけ。
「皇女サマァ、今日の飯だぜ!」
ひきがえるみたいん看守が、全く敬意の感じられない言い方をしながら、明かり取りの窓から固そうなパンを放り込んできた。
目が覚めた。
粗末な学生マンションの、見慣れた天井が見える。
あたしは「皇女さま」と呼ばれていた。
しかし牢につながれていることといい、あのバカにしたような呼び方といい、普通の生活をしている皇女ではない。
もしかしたら、夢の中のあたしはアナスタシアなんじゃないか?
だけど牢に入っていたのはあたしだけだ。皇帝一家には、皇帝と皇后、四人の皇女と皇太子がいたはずだ。
ゼミのあと、「チャイコフスキー夫人」について調べた。
彼女は、「地下室での銃殺のとき、姉の体に隠れたため銃撃を免れた」と話している。
そのあと赤軍に牢につながれたと考えれば辻褄が合う。
…何を考えているんだ。夢の中の設定を考えてもしょうがないじゃないか。
早く着替えて学校に行かなきゃ。ハロウィンの、衣装づくりが間に合わない。
目が覚めた。
いつも獄の、固そうなベッドが見える。
ネズミがベッドの下を走り回っている。
たったひとつの明かり取りの窓からも、まだ光は刺していない。
まだ夜明け前なのか。
もっとも、わたしの人生そのものに、もう夜明けなんか来ない。
起き上がらなくていいだろう。起き上がっても、することなんかなんにもない。
死ぬまでここにいるだけだ。
長く生きたいとも思わない。
最近、同じような夢ばかり見る。
「シブヤ」だの、「ハロウィン」だのという単語は覚えているが、目を覚ますといつも幻のように混沌とした記憶の中に消えてしまう。
だけど夢の中のわたしは街を自由に歩いていて、明るく、将来への希望に満ちていた。
こんな所に閉じ込められているからそんな夢を見るのだろうか。
ここのところ、同じ夢ばかり見る。
毎日、牢屋の中で目を覚まして、一日ぼんやりていて、看守にパンと水をもらい、パンを食べて水を飲む。
ただそれだけ。
もしかしたら、同じ夢ではなく、続き物の夢なのかもしれない。
経験したことなどないが、牢屋の日常なんて単調なものだろうから。
だけど、もしかしたら牢屋の中のアナスタシアが本当の自分で、あのベッドの中で東京にいる自分の夢を見ているのかもしれない。
日文科の子から聞いたけれど、中国の古典文学に、蝶になった夢を見た男が、「人間の自分が蝶になった夢を見たのか。蝶である自分が人間になった夢を見ているのか。わからない」と思ったという話があるそうだ。
蝶の脳で人間になった夢を見ることができるとは思わないが、アナスタシアならできるかもしれない。
アナスタシアが日本語を話せるとは思わないが、あたしが見ている「現代日本」そのものがアナスタシアの脳が作り出したものならば、そんなことは問題にならない。
しかし、あのマンションの天井、机の上のパソコンとスマホ、電気スタンドとカレッジノート。あれらが夢の中のものとはとうてい思えない。はっきりとした現実感をもって、「くだらないことを考えていないで、早く起きて学校に行け」と迫ってくる。
だけど夢の中の明かり取りの窓、机の上の水差し、固そうなパン、ねずみの鳴き声。あれらもまた夢の中のものとは思えないほどの現実感があった。
目が覚めた。いつもと同じ固そうな獄の天井が見える。
やっぱり夜明け前だ。
朝が嫌いだ。
一日やることがない。
朝から、早く夜が来て眠くならないかということばかり考えている。
眠っている間だけは、自分が獄につながれていることを忘れることができた。
今日も看守がパンと水を持ってくる。
それを口にするだけの一日。
しかしこの日、看守はとうとうこの部屋にやってこなかった。
渋谷駅の南口を出ると、ハチ公像がすぐ近くにある。しかし、近くにあるとしても、すぐに目にすることができるわけではない。どんな時でも、ものすごい数の人がこの空間に割り込んでいるからだ。
南口を出て左に折れ、ものすごい人垣に割り込んでいき、ずっと駅を左にしたまま進んでいくと、ようやくハチ公前に出る。駅舎を背にして立つとその正面に、あの巨大なスクランブル交差点がある。全国的にも、いや海外でも有名らしい。信号が変わると同時に群衆が一斉に動く。その壮観さは津波のようだ。スクランブル交差点の向こうには円筒形の、特徴的な建物が見える。SHIBUYA109だ。東京の女性ファッションの最先端だ。その右側に「渋谷センター街」の入口がある。飲み屋街ではあるが、それだけではない。全国チェーンの安売り洋服屋があり、いきなり日本舞踊の教室があり、TSUTAYAがあり、それらが何の整合性もなく共存している。渋谷の雑種文化の、まさに象徴のような街だ。
ここに立っていれば、渋谷を象徴する建造物を、一目で見渡すことができる。南口は「シブヤ・イースト」とは対照的な、大都会のまっただ中にいることをだれでもいやおうなく思い知らされる、そんな場所だ。
空の中程に、目前の巨大な液晶板が幾何学的な模様を映し出している。その隣では、これも人体の数十倍ものパネルが、映画や清涼飲料水の広告を無音で映し出している。周りには、まぶしいほどのネオンが無数に光っている。
そして地上には雑踏の喧噪がいつ果てるともなく続いている。
あたしも現代に生きている。菊川市にいたころも、渋谷にくればこんなものだろうと頭では理解していた。しかし、実際に立つのとは違う。あたしも若い。都会の光景を「文明の堕落だ」とか言うつもりはない。それよりも華やかな場所に対する憧れがはっきりとある。
しかし、今日の風景は異常であった。
なんだか、去年よりすごい。
目につく人達の半分は、普通に背広を着ている。しかしもう半分は、なんというか、ジャック・オー・ランタンなどほとんど目につかず、Pの頭で衣服は背広とか、女性なのにアンドロメダ舜とか(今はそれでいいんだとナツキは言った。なんでだろう)アニメのコスプレがものすごく多い。ワンピースの麦わらを見かけないのは、寒いからだろうか。かと思えば、オリジナルすぎて元ネタが全くわからないものもある。普段着の上に「ガンダム」とマジックで書いた箱を着ている男までいる。もともとこの、渋谷のハロウィンというのは、主催者がいるわけでもなく、自然発生的に始まったため、秩序だったところが全くない。ふと見たら、セーラー戦士が5人そろって吉野屋で牛丼を食べていた。
ここなら、この程度の格好をしていても、悪目立ちをすることはないだろう。
ただの、古めかしいドレスを着た女でしたない。
カタカナとロシア語で「アナスタシア」と書かれている(らしい)看板を首から提げているが。
「いくら顔が似ていても、みんなアナスタシアの顔なんか知らないから、言われないとわからない」とナツキが言った。
だったらやらすな…。
「アナスターシャ!」
突然、ロシア語っぽい声かした。
声がした方に振り返ると、マイクを持った白人が、カメラを構えた白人を従えている。
「いや…、東京でアナスターシャに会えるとは…。我々はロシアのテレビの取材班です。渋谷のハロウィンの取材に来ているのですが、感動しました! あなたは、アナスターシャにそっくりです! どうしてこのコスプレをしようと思ったのですか?」
白人は「アナスターシャ」という人名以外は流暢な日本語をしゃべった。
ドラキュラの格好をしている(背が高くて鼻が隆いイケメンのカズキに、とても似合う)カズキが言った。
「いえ、コスプレではないんですよ」
「魔女の宅急便」のキキの格好をした(背が低くて童顔のナツキにとても似合う)ナツキが続ける。
「彼女は本物のアナスタシアなんです。実は赤軍の手から逃げ延びて、この東京に潜伏していたのです!」
白人が笑いながら言った。
「だけど…、ずいぶんお若いですね」
あたしが答えた。
「いえ。わたしは、アナスタシア・ニコラエヴェナ・ロマノヴァに間違いありません。今は東京の渋谷で、日本の大学生になった夢を見ているのです!」
今日はいつもの看守が来ない。
さすがに空腹になった。
「誰かいないの! パンは! お腹がすいたんだけど!」
誰も返事をしない。
というより、人の気配が全くない。
もう一度叫んだ。
「誰か!」
返事は返ってこない。かわりにゴゴゴゴという何かがうなるような音が聞こえてきた。
何だろう? まさか、これのためにみんな逃げた?
明かり取りの窓に飛びついた。
水だ!
大きな水のかたまりがうなりをあげてこっちにやってくる!
叫んだ。
「出して! 水が入ってくる! 誰か、出してえ!」
死にたくない!
昨日までの、何もやることがない毎日がひどく懐かしいものに思える。
あたしは泣き叫んでいた。
「誰でもいい! 何でもする! 皇女じゃなくていい! 奴隷になってもいい! 何でもするから助けて!」
明かり取りの窓が水圧で破れ、みるみるうちに床が水浸しになる。ベッドの上に立った。ネズミもベッドの上にのってきたが、そんなことはどうでもいい。
水はどんどん増えてくる。ベッドが浮き始めた。それからは早かった。ベッドの上にいても、あっという間に水が腰の高さまで来た。
「誰か、助けて…」
その時、頭の中にある声が響いてきた。
「ニセ皇女め。ロマノフ王朝の名を騙った罰だ」
そんな…。
「あれは、ハロウィンのコスプレなの! ただの遊び、いやゼミのフィールドワークをしてただけで、人を騙すつもりなんかまったくなかった! だから、助けて!」
腰までの水がみるみるうちに首まで来た。
水が顔まで来た。
死と苦しみへの恐怖で発狂しそうだ。
水が口を覆う。
鼻で息をする。
一瞬でも長く生きたい!
鼻に水が入った。むせた。
しかし顔すべてが水の中だ。咳をすることもできない。
手足をめちゃくちゃに動かした。
「さくら、ちょっと、大丈夫?」
ナツキの声が聞こえる。
「ぷはーっ!」
顔を水面から出した。
湯気が見える。ナツキの顔が見える。タイルの富士山が見える。
思い出した。
ハロウィンの帰りに、疲れたから部屋のユニットバスに浸かりたくないと、ナツキとスーパー銭湯に寄ったんだ。
どうやら湯船に浸かったまま眠ってしまったらしい。
あたしとナツキは、周囲の客たちに謝りながら、そうそうに風呂から上がった。
あたしが美術館で見た絵。
「皇女タラカーノヴァ」。
彼女は前ロシア皇帝であるエリザーヴェータ女帝と愛人ラーズモーフスキー伯爵の間に生まれたとのふれこみで、忽然とパリに現れた。詐欺師だったかもしれないが、たちまち社交界の花形となり、男たちは金銀を貢いだ。
パリでの評判は現皇帝エカテリーナ二世の耳に入った。エカテリーナは、皇女を僭称するタラカーノヴァをうとましく思い、ペテルブルグまで拉致し、ネヴァ川ぞいのペトロパブロフスク要塞監獄に拘禁した。
1777年、ペテルブルグを襲った洪水によって、独房に取り残されたタラカーノヴァは溺死したと伝えられる。
あたしが見ていた夢の中の自分はアナスタシアではなく、このタラカーノヴァだったらしい。
「らしい」と言っても、夢の中の話だ。なんの確証もない。
ただ、二度とアナスタシアのコスプレはするまいと決意した。
来年は、どうしようか。
アンドロメダの舜か?
女性でもいいみたいだし。
いや、普段着に段ボールでいいか。