2,雨の日の来訪
薬師会から帰ってきてから雨続きである。
この地域に雨期はないのになぁ……などと考えながら窓の外を眺める。
シオンは昼寝が出来なくて溶けており、セルリアはその横で読書中である。
「シオンにい、シオンにい」
「んー?」
「これ、これなんて読むの?」
セルリアに袖を引かれ、シオンが身体を起こす。
見せられた文字を確認し、質問に答えながらセルリアを膝に乗せる。
そのまま話し始めたところで、店の扉が開いた。
「よお」
「おー、いらっしゃい」
入ってきた人物を見て、シオンはセルリアを抱えたまま作業部屋をノックする。
扉を開けて来客を告げれば、アオイはすぐに出てきた。
セルリアは足をプラプラさせている。
アオイはその人物を見て表情を明るくした。
その人も笑顔で片手を上げる。
「お久しぶりです!」
「おう、久しぶり」
駆け寄ったアオイの頭を撫で、薄く笑う。
その顔を見て、アオイは不思議そうな顔をした。
「あれ、目の色変わりましたか?」
「……ああ」
顔から笑みが消えた。
細められた目に何かを悟ったのか、シオンはセルリアを連れて別の部屋に移動した。
アオイはその人と共にカウンターの内側に座り、話を聞く。
「どうされたんですか、ナーセルさん」
「……魔力が落ちているんだ」
赤の強かった右目は、今は青紫になっている。
それも、薄い青紫だ。
「痛みますか?」
「魔力が抜け始めた時は傷んだが、今はそんなじゃねえな」
アオイに覗き込まれても抵抗せずに座っているナーセルはまっすぐにアオイを見つめる。
「アオイ。俺の魔力抜けるのを抑えられるか?」
「……出来なくは、ないです。でも……」
「分かってる。それは、分かってんだ」
アオイはナーセルから身体を離し、下を向いた。
彼女がここに来た理由が、分かってしまった。
自分を頼ってきたのだということは分かる。それでも、ただ遊びに来ただけならどれだけ良かったかと考えてしまう。
「なあ。アオイ」
「だって、だってそれは……」
「分かってる。こんなこと頼んで悪いとも思ってる。でも、お前以外に頼れねえんだ」
彼女の望みは、彼女の命を短くするものだ。
おそらく、苦しい日々が待っているはずなのに、彼女はまっすぐにそれを望む。
アオイは、下を向いたまま動かない。
「アオイ」
「嫌です……」
アオイは、人が苦しむのを好まない。
人が死ぬことを好まない。
それが故、薬師をしている。
だが、薬学は万能ではない。
全ての者を救うことは出来ないし、全ての苦しみを取り除くことは出来ない。
「なあ、アオイ。俺は後どのくらい生きられる?」
「……ゆっくり生きて、平均寿命です」
知っているのだ。彼女の望む答えではないということは。
それでも、言わずにはいられなかった。
それが自分の望みなのだと分かっていても、言わずにはいられない。
「今の、生活は?」
アオイは、泣きそうな顔をした。
知っているのだ。彼女は、全てを悟ってここに来ていると。
自分が答えなくても、知っているのだろうと。
「もう、十分働いたじゃないですか。もう、休んでもいいじゃないですか」
彼女は笑う。
優しい笑みだった。
それでも、納得はしていない笑み。
「まだ、駄目だ。俺は、あれを完成させていない」
アオイは顔を下げた。
何で、と呟いて膝の上で拳を握った。
「なあ、アオイ。生きがいのない日々は、死んでいると同じじゃないか?ずっと変わらない平和な日々は、平和だが平坦だろう?」
アオイは、何も言わない。
顔も上げず、それでもナーセルはアオイをまっすぐに見て話し続ける。
「俺にとって、研究の続けられない日々は何もない空白の時間だ。死と同義なんだ」
分かっていた。彼女が研究に文字通り命を懸けていることは。
知っていた。彼女の情熱も、その研究の尊さも。
それでも、思わずにはいられない。
自分から、この友人を奪わないでくれと思わずにはいられないのだ。
だから、どうしても頷けないのだ。
彼女の願いでも、それが彼女の幸せでも、頷くことが出来なかった。
「なあ、アオイ。頼む。薬を、作ってくれ」
ナーセルは淡々という。
迷うことなど無かった。
研究が続けられないなら、この命は終わったのだ。
そう思って迷いもしない。
アオイは顔を上げなかった。
伏せられた顔の、髪の隙間から雫が落ちるのが見えた。
泣かせたいわけではなかった。泣かせたくはなかった。
それでも、自分の望みを叶えられるのはアオイしかいなかった。
無言が続く。どれくらい時間が経ったのか、その沈黙を破ったのは暖簾の擦れる音だった。
ナーセルはそちらを見た。
そこには、ウラハが立っていた。
「……マスター。私はね、ナーセルちゃんの考えに同意よ」
アオイの横に立ち、ゆっくりと言う。
優しい声色だった。いつもと同じ、優しい声。
「人の一生は、私から見れば短いわ。その短い時間を、濃く、強く光らせる人の子は星みたいだと思うのよ。その星の輝きは、とても人間らしくて、私は好きよ」
いつもと変わらぬ優しい声で、アオイを包み込んだ。
そっとアオイを抱きしめて、ウラハは言うのだ。
「薬学は、人の願いを叶えるためにあるのでしょう?」
「…………うん」
答えた声は濡れていた。
ウラハに抱きしめられ、アオイはそっと席を立つ。
「少し、考えさせて」
そう言って駆けて行った背中を見送り、ナーセルはウラハに声をかけた。
「まさかお前から助け船が来るとはな」
「私も、思うところはあるのよ。……場所を変えましょう」
ウラハに促され、ナーセルは客間に向かった。
雨の音が他を消して、とても静かな夜だった。