黒ウサギと善良な老人 2
畑の手入れは終わり、老人は痛む腰と膝を摩りながら黒ウサギを振り返る。
不思議そうに汚れた手を見つめ、呆けている黒ウサギはその視線に気づいたのか老人を見た。
「お主、どこから来たのだ?帰る場所は?」
「どこから……?むこうのほう。かえる、は、なに?」
「戻る場所だ。家や、家族は?」
「うん?ない、知らない」
「そうか……ふうむ……」
考え込む老人を不思議そうに眺めて、黒ウサギは作物を踏まないようにトテトテと移動する。
そして、老人の家を指さした。
「ねえ、これなに?」
「それは儂の家だ」
「いえ、は、この形?」
「いや、同じ形のものはないだろうなぁ。住処、居住地……なになら分かるかのう」
「すみか、洞窟」
「人間の多くは、こうして住処を作るのだよ。暮らしやすいように色々整えてな」
老人は杖をついた遅い歩みで黒ウサギの横を通過して、玄関の戸を開けた。
そして黒ウサギを手招きする。
その行為に首を傾げられ、そっと「おいで」と声をかけた。
よく分からなかったが呼ばれているらしい、と理解した黒ウサギが付いていくと、老人は家の中に入っていき、水を流して手を洗う。
何をしているのか、と近付くと、そっと水を向けられた。
ひとまず老人の真似をして、渡されたタオルで同じように手を拭いて。
ぎこちないその動きで、何となく真似をしているのだと老人が理解しても、黒ウサギは何を思うでもなく手に持ったタオルをどうするのかと老人を見た。
「それは貰おう。さて、お主は人ではないようだが、何者だい?」
「うん?」
「自分の種族は分かるかの?」
「うーん……うさぎ」
「そうか、ウサギか」
老人がお茶を入れ始めると、黒ウサギは傍によってじっとそれを見始める。
老人が気にするでもなくお湯を注ぎ、蓋をして手を止めたところでそのティーポットを指さした。
「それ、なに?」
「お茶を淹れているんじゃよ」
「おちゃ?」
「味のついた水、かのう」
「味のついた……」
「まだ味が移っておらんでな、少し待て」
「うん……」
不思議そうに、ただじっとティーポットを眺める黒ウサギをさらに後ろから眺めて、老人は長いひげを撫でつけた。
「お主、名はあるのか?」
「な?」
「名前じゃ」
「なまえ……ない」
「そうか」
答える声に、老人は息を吐いた。
無邪気な黒ウサギは、ティーポットに手を伸ばす。
触る前に老人に止められ、熱いからと言われた。
そのまま座るように促されて素直に従い、ウサギは老人を見上げた。
その視線を受けて、老人は黒ウサギを見つめ返す。
「……あなたは、ボクを攻撃しないの?」
「する理由がないでの。お前さんが攻撃してきても、やり返せるとは思えん」
「……りゆう?」
「考えたことがないか?」
「うん……だって、だって。ボクは、ボクたちは、全部攻撃するんだって。しないと、生きていけないんだって……」
「ふむ……それは難儀だのう……」
話しながらティーカップを2つ取り出し、ゆっくりとお茶を注ぐ。
じっと見てくる黒ウサギを制しながら茶菓子を皿にあけ、それを食い入るように見ている黒ウサギに差し出した。
「……食べていいの?」
「うむ。食べている間に、茶もいい温度になるだろう」
渡された茶菓子をかじって、黒ウサギは心底不思議そうに老人を見上げた。
老人はそれを気にせずに戸棚の中を覗いていた。
「お主、帰る場所がないならここにいるかい?」
「……ここに?」
「うむ。寝床と食事はやるでの、儂の手伝いをしてくれんか」
「…………それは、それは……ボク、それを、してていいの?」
「悪いなんてことはなかろう?」
「でも、だって、何か殺す以外、ボクらは知らない……」
「これから覚えればいい。……ほれ、いい具合に冷めたぞ」
お茶を差し出されて、黒ウサギは戸惑いながらそれを受け取った。
少し啜って、ほうっと息を吐いてもう一度口をつける。
そして、夜になって柔らかなベッドに案内されて。黒ウサギは、戸惑いよりもこの場の居心地の良さを取って、老人のもとにとどまってみることにしたのだった。
次の日から、黒ウサギは老人を質問攻めにしながらいろいろなことを知った。
人は集まって暮らすことが多いこと。
そこで、通貨を使って物や技術をやり取りすること。
柵を張った範囲が、老人の家の範囲であること。
その中に入ってきて、こちらを害するものは倒してもいいということ。
むやみに周りを傷つけてはいけないが、自分の命が危ないなら牙を振えと。
黒ウサギのうっすらとした記憶にはないことを色々と教わり、老人のもとでひと月ほど暮らしたころにはその黒ウサギは随分と素直な、人間の子供のようになっていた。
畑を手入れする老人の手伝いをして、文字の読み書きを教わって、時折周りの散策に出かける。
そんなことを繰り返していると、ある日老人の家に1人の青年が訪れた。
明らかに警戒している黒ウサギの頭を撫でながら、老人はその青年を招き入れ、丁度いいからと黒ウサギに同席するようにと言っていつものようにお茶を淹れ始めた。