雑話 流刑の女
雑話と称して、背景設定など語らせていただきたいと思います。
主に舞台世界についてや、人物の過去話など展開していく予定です。
過去の話となりますと、残酷な場面なども入ってしまいますので、苦手な方は次の話へお進み下さいます事、お願い致します。
本編だけで完結するよう書くつもりではおりますので、雑話は興味を持っていただけた方に向けたお話となります。
私は、馬車に揺られていた。
はらはらと白いものがちらつく中、両手足に枷をはめられ、薄衣一枚で。
目の前には薄ら寒く笑みを張り付けた役人がいる。馬車に乗せられた時から、汚らわしい目付きで私を見ている。
そのわりには手を出そうとはしない。
分別は弁えているという事だろうか。
馬車は、幌が付いているのが救いだった。
多少は風を凌げ、雪に濡れる事もない。
だが今日は寒かった。
芯まで冷えてしまい、歯を食いしばっておかなくては、がたがたと音を立ててしまう。
私は罪人だ、人を一人殺した。
村で、平凡に暮らしていただけだった。
だが私に懸想し、力ずくで事をなそうとした男がいた。
私は抵抗し、男は運悪く死に至った。
私の不運は、男が貴族の息子だった事だ。
それでも村の人々は抗議してくれた。
親と、弟と妹も必死に温情を求めてくれた。
私を捕らえるために村を訪れた役人すらも、貴族から私を守ろうとかけあってくれた。
だが、法に則り刑は言い渡された。
そうして私は今ここにおり、馬車は流刑の地へと私を運んでいる。
村での日々が遠退いていく。
好きな人がいた。
結婚も間近に控えていた。
村の誰もが祝福してくれて、私は本当に幸せだった。
全て貴族に壊された。
私の心は、憎しみに囚われてしまった。
山や谷を幾つも越えて、ようやく辿り着いたそこは不思議な場所だった。
絶壁に囲まれた天然の牢で、人為的に作られた坂道が唯一の出入口となっている。
見下ろせば、町があるのが見える。
森や湖も確認出来る。
川もあるのだがその先は滝となっており、生きて下りられた者はいない、と私の視線に気付いた役人がわざわざ教えてくれた。
手続きが終わり、私は彼に連れられて坂道を下って行く。
足枷は外されていたが、足早に歩く男について行くのは骨が折れる思いだった。
坂の終わりに塀と門があり、その前で手枷が外される。
さらに、額に染料と筆で何かを書かれた。
「あんたはここから出られない。
この印があんたを守り、だがいつか命を奪うだろう。
こんな美人さん、本当は連れて帰りたかったが、それをしたら俺が殺される。
悪く思わんでくれよ。」
手遅れだ、もう悪く思っている。
「それじゃ、元気でな。」
役人の男は坂を登って帰った。
この男は当然、私を助けようとしてくれた役人とは別の人間だ。
私の姿見た瞬間は、何をするつもりだったのか声を上げて喜んだが、流刑地送りだと聞いて酷く残念な顔になった。
私は手を出されるのだと思い込んでいたが、反して彼は触れる事すら無かった。
流刑地、この場所に何かがある。
状況を考える限り、そういう事なのだろう。
私は衛兵に刃物を向けられ、門をくぐらされた。
そして門は、私が入るとすぐに閉められ、閂が下ろされた。
もう、外には出られない。
もう二度と、村へは戻れない。
目の前には、上からも見えていた町がある。
少し歩いてみたところ、人の姿は見当たらなかった。
誰もいないのだろうか。
もっとも、いたとしてもそれは罪を犯した者だ。
危険な人間である可能性が高いのだから、会わない方が良いとも考えられる。
町は、決して大きいものではなかった。
私の生まれ育った村とそう変わらない規模だ。
建物が十程あり、それぞれに部屋が三から四と言ったところか。
私のように罪人を放り込んでいるのなら、この建物は既に所有されてしまっているだろう。
眠る場所が欲しかったのだが、罪人がいるとわかっている場所で眠る気にはなれない。
早々に町を出よう、それが私の選択だった。
役人の言葉と額に描き込まれたものも気にかかったが、わからない事を考えるよりは目先の平穏を求めたかった。
誰かに見られているだろう。
そう予想し、素人なりに警戒しつつ町の外に広がる森へ向かったが、何者かに襲われる事は無かった。
しかし不安はどうしても感じてしまうものだ。
「イルハルよ・・・。」
神の名を呟いてしまう。
それは敬虔であった頃の名残だ。
反射的に口にしてしまったが、今はそれ程の信仰を抱いていない。
慈愛の女神エルハルと正義の神イルハル。
世界で最も信仰されている二柱だが、私がここにいる事を考えれば、果たして如何程の意味があろうか。
捕らえられて以来、毎日少しずつ信仰を失って来た。
普通に生きていたかっただけなのにそれすら守られないなら、祈る時間も捧げた作物も全て、無意味なものだ。
神官達はこれまでの生に感謝して、などと宣うのだろうが、流刑地に送られるための生だったのなら、そこに感謝が生まれようはずもない。
或いは、貴族の欲望を満たすための生か?
私は抵抗する事を選んだ。
その選択を神官達は何と言うだろう。
森を進めば、川に出る。
上から見ていた通りだ。
川の水で顔を洗うが、どうやら額の染料は落ちないようだ。
額を擦った手に色が付かない。
ついでに腕と脚も洗い流すが、身体は止めておいた。
川を渡って森の深くへと分け入って行く。
ふと思い付いて身を潜め、隠れて様子を窺った。
男が三人姿を現し、川を渡って森を奥へと向かって進むのを見送る。
やはり追われていたのかと、肝を冷やした。
静かに、男達とは違う方向へ、川上へと歩いた。
諦めてくれれば良いが。
町から離れたくて、ひたすらに歩いた。
あの近くでは、眠ることなど出来ない。
襲われてなどなるものか。
そう思って、とにかく川上を目指した。
川の周りは森が深く、濃く茂っており、その向こう側を窺い知る術は無い。
幸い何者にも出会わず、私はただ一人歩いた。
その内に辺りは暗くなり、夜が来たのだと知れた。
寝床を見繕わなくては。
考えたが、良い場所が見付からない。
茂みの中か、木の上か。
どちらも到底安全とは思えなかった。
動物や魔物の姿はまだ見ていないが、いないとは限らない。
男達が追って来ているとは考え難いが、万一来ているのであれば、下手な場所には隠れられない。
とにかくもうしばらく歩いて探す事にする。
やがて、湖に辿り着いた。
森から出ずに辺りを見て回ると、数人の人影が見えた。
焚き火を熾し、その回りに集まっている。
近付くのは危険だろう。
その場を離れた。
やはり、住むに易い場所は既に空いていない。
わかっていた事だが、女一人には厳しい環境と言えそうだ。
湖に向かって、左手の方向へ歩みを進める。
そちらは町から一番離れる方向だ。
つまりは、この牢獄の一番奥。
寝床に相応しい場所を見繕わなくてはならない。
そうは考えていたが、眠気は来なかった。
いつかは来るものだから、もちろん探しておくに越した事はない。
森の中なら大丈夫ではないか。
茂みに隠れてしまえば、誰に見付かる事もまずないように思える。
しかし動物や魔物がいない、とは限らないのだ。
まだ姿を見ていないが、臭いで嗅ぎ付けられてしまえば、容易く食われる事だろう。
そんな思いで、私はひたすら奥を目指した。
出来れば誰にも知られていない洞窟でも見付かれば、それが一番ありがたい。
やがて私は、最奥の絶壁へと辿り着いた。
見上げればかなりの高さで、掴みどころのない壁が続いている。
これでは登れはしない。
そして視線を落とせば、そこには洞窟があった。
ここなら、大丈夫ではないか。
しかし暗闇に何が潜んでいるとも限らない。
そんな不安が胸を過ぎるが、突如後から物音がして、私は思わず洞窟の暗がりに身を隠した。
何者も姿を見せない。
今の音は間違い無く何かが、動物か魔物か、または人間か。
何者かが立てた音だ。
風に吹かれた、物が落ちた。
そんな音ではなかった。
しかし姿を現さない。
外には、出られなくなってしまった。
私は追い立てられるように、洞窟を進んだ。
中は暗闇だが、少しずつ様子を窺いながら歩く。
音は何も聞こえない。
手で壁を触り、それを頼りに一歩、また一歩と歩く。
次第に目が慣れたのか、薄暗くも見えるようになってきた。
洞窟は真っ直ぐ奥へと続いており、その先はまだ見えない。
しかし代わりに、壁に何かが書かれているのが見えた。
絵と、文字だ。
私の暗闇に慣れた目はそれを読み解いていく。
それは神話だった。
正義の神イルハルと五の悪魔。
誰もが子守唄代わりに聞かされる、英雄譚だ。
五つの悪徳を悪魔に見立て、正義であるイルハルが打ち砕いていく。
そんなお伽噺がここには描かれていた。
「イルハル神とエルハル神、二柱が協力して悪を倒して行くのだったか。
悪魔は確か、クーベル、サルベル、ラルベル、ニベル、テヘラベルの五つ。
月と太陽の狭間にある、見えない世界に封じる事で、戦いは終わる。
そんな結末だったな。」
案外覚えているものだ。
懐かしさもあり、歩きながら眺め、読み進める。
終わる頃には、入ってきた入口が見えなくなっていた。
今になって、ようやく気付く。
どうして私は、光の届かぬ闇の中でものが見えているのだろう。
血の気が引いて行くのを感じる。
身も心も竦み上がってしまい、壁によりかかって何とか立っている。
私の目は、今や指の一本一本さえ区別がつく程に闇を見通している。
洞窟の先も見えていた。
そして、何故私はここまで進んで来た?
安全に眠る事に固執して、眠くも無いのに寝床を探した。
物音や人の気配にも随分と敏感だった。
ただの村娘が、どうしてそこまで察する事が出来る?
私は不穏な考えに至っていた。
ここまで、導かれたのではないか。
両開きの扉がある。
自分の身に起きた異変、暗闇を見通す目に恐怖しているはずなのに。
ここまで導かれたと言う可能性に竦んでいるはずなのに、私の足は奥へと、その扉へと歩みを進める。
手を伸ばし扉に触れると、それはどうやら金属のようだった。
凍てつくように冷たく、あまり触っていたくないと感じる。
しかしこの奥ならば、安全に眠れるのではないか。
またもそんな思考が頭に浮かぶ。
恐ろしい。
まるで何者かが囁いているようではないか。
しかし結局、ここまで来てしまった。
仮に戻って他へ行ったとしても、ここよりは危険に思える。
私は葛藤の末、開き直って開ける事を選んだ。
何を悩んだところで、私はこの流刑地を出る事など出来ないのだ。
遅かれ早かれ動物か魔物、或いは私を追っていたあの男達のような者共に、食い物にされるだけだ。
ならば、この奥に何がいたとしても変わり無い。
私の命運など、貴族に襲われた時には尽きていたのだ。
今更だ、今更なのだ。
思いきって扉を押せば、見た目に反し軽く開いた。
覗くが、闇が深過ぎるのかよく見えなかった。
しかしまた、その内に慣れるだろう。
一歩踏み込み、さらにもう一歩。
少し闇が薄れたように見える。
やはり慣れてしまうようだ。
まだ全てを見渡せないが、少し広めの空間になっている。
音も気配も無い。
扉は閉めず、そのまま奥へと進む。
思っていた通りに目が闇を見通すようになってきた。
そこは、まるで神殿のような造りになっていた。
柱があり天井を支えている。
階段がありその先には祭壇がある。
そこに意外なものを見付け、私は緊張した。
人が眠っている。
近付いて見れば、子供のようだった。
十二、三と言ったところだろうか。
あどけなさの残る風貌、細い体格に、私のような薄衣を一枚纏っている。
この子供も、私と同じようにしてここへ辿り着いたのだろうか。
この年でこの牢獄に入れられてしまうなど、およそ人の所業とは思えない。
むごい事をするものだ。
国の定めた法など所詮、力ある者が力無い者を利用し、己の欲を満たすためのものだ。
だから私はここにいるのだし、恐らくこの子供もそうして連れられて来たのだろう。
子供が何をしたとして、この年ではそれは周りの大人の責任だ。
善と悪を正しく教える事を怠ったのだ。
そう思っていた。
子供が目を覚ました。
その目は真っ直ぐ、私に向けられている。
「起きたか。
君も見えているのだな。」
声をかけると子供は起き上がり、祭壇に腰かけた。
そして、ふわりと柔らかく微笑んだ。
何かがおかしい、直感が告げていた。
違和感があったわけではない。
子供を頭から足の先までよく見たが、妙なところは無い。
改めて視線を上に、頭へと戻して行くと、額の辺りで私は気付いた。
何故この子供は、額に何も書き込まれていないのだろうか。
洗っても落ちない染料で、私の額には黒の何かが書かれている。
鏡が無いので見る事は出来ていない。
しかし確かに、そこには書かれているのだ。
それがこの子供には無い。
不思議そうに私を見ている。
目が合うと、子供は愛らしく笑った。
そして初めて、言葉を話した。
「ようこそ、僕の生贄さん。」
声は幼く、澄んだ美しさで響いた。
耳に心地よく、張り詰めた心を解すようだったが、その穏やかでない言葉によって阻まれた。
生贄、子供はそう言った。
私の事を自分の生贄だと。
どういう意味なのだ。
その言葉通りならば、私はこれから食われてしまうのか。
生贄と言うからには、私は捧げられたものなのだろう。
誰から?国からか?
では、生贄を捧げられるこの子供は何者なのだ。
そのようなものを捧げられるのだから、神か悪魔か。
しかし目の前で微笑むその姿からは、とてもどちらにも見えない。
子供の冗談にしても少々趣味が悪い。
「君は、神様って信じる?」
子供は突然、そんな問いを投げかけた。
こちらの戸惑いなど気付いてもいないのか、気にしていないのか。
「信じるとは曖昧ね。
存在の事?信仰の事?」
「信仰の事。」
もしかしたら、この子供は見た目通りの年ではないのかもしれない。
二十近くであるとかそれ以上、は無いように思えるが。
「信仰は無駄だと悟ったわ。」
「嫌いになったの?」
そうではなかった。
正義の心も慈愛の心も持つべきものだと今でも思っているし、その象徴たるイルハル神とエルハル神を敬愛するとまでは言えないが、憎悪や嫌悪の感情などは抱いていない。
「信仰を無くしただけよ。
祈る時間があるなら、畑を耕した方が良い。
捧げる供物があるなら、飢えた子供に分けた方が良い。
今はそう思っているわ。」
「現実的なんだね。
素敵だと思うよ。」
それはありがとう、と返しておく。
決めた、と言って子供は祭壇の上から下りた。
そして私の手を取る。
「君は僕の生贄だから僕の自由に出来るけど、気に入ったからさ。
望む事があるなら、力になるよ。」
何やら子供らしくない事を口走った。
いや、むしろ子供らしいのだろうか。
どちらにしても、この子供のものになった覚えなど無いし、生贄だなどと本気で言っているのか。
「例えば、ここから出たくない?」
それは、確かに望んでいる。
この牢獄から逃げ出して、村へ帰りたい。
あの人に会いたい。
そして村から離れたところで、二人でやり直したい。
しかし本当に、そんな事が出来るのか。
私は疑いの目で子供を見る。
「口で言うよりは、実際に行動した方が早いよね。
ここ、座ってくれる?」
私は言われるままに、床へと腰を下ろした。
突然、子供が額に口付けをする。
随分とませた子供だ、と思ったが、この年頃ならそうでもないかと思い直す。
自分達もそう変わらない年で、口付けくらい交わしたものだ。
思い出して、少々気恥しくなる。
「ありがと。
それじゃ、外へ向かおうか。」
子供は私の手を引く。
そう言えばまだ、名前を聞いていない。
「私はミサリア。
あなたは?」
「僕はクーベル。
堕落と闇の旧神だよ。」
長い洞窟を、手を引かれて歩く。
子供はクーベルだと名乗った。
私は疑ったが、
「生贄として捧げられた者が闇の中を見通せるのは、僕の影響だよ。」
と言われれば、心当たりが無いわけでもないので、半信半疑程度にはなった。
「あなたは、悪魔ではないの?」
「ああ、何となく察した。
元、神だよ。」
神々の戦いにおいて敗れた神は、悪魔とされたのだろう。
そんな話を彼はした。
もちろん全てを信じ込むつもりは無い。
しかし、神話は神の側から語られた話だ。
敗れた悪魔の側からの話も聞いてみたい。
そんな好奇心が湧いていたのだ。
それに、本当にこの子供がクーベルであるならば、私はこの悪魔に捧げられてしまったのだ。
これから死ぬまで、もしかしたら死んでも尚、そのそばから離れられないのだ。
ならば、その話を聞いておいても悪くはないはず。
「イルベルはさ、潔癖過ぎたんだよね。」
「イル、ベル?」
クーベルは私の、その反応のみで理解してくれた。
「名前、変えてるのかな。
正義の神ね。
慈愛の女神はエルベル。」
「イルハル、エルハルと、今は呼ばれているわ。」
ハルね、と呟いている。
「神と言うのは、どの神にしても二面性があるんだ。
例えば、僕なら信仰と堕落。
でもイルハルは、それを受け入れられなかったんだ。」
対になる二面性。
いにしえに七柱存在した神はそれを内包していた、らしい。
難しい話になってきた。
私はあまり利口な方ではないから、その価値観に理解がなかなかついて来なかった。
「イルハルは正義の神だった。
対になる概念は悪。
けれど正義は悪を否定するものだから。
イルハルはそれを受け入れられず、そして他の神が受け入れている対なる概念も受け入れられなかった。
愚かである事も臆病である事も、贅沢も堕落も絶望も全部、許せなかったんだ。」
そして全てを打ちのめし、悪魔であると貶めた。
「慈愛は、エルハルは何故受け入れられたの?
エルハルの司る慈愛、慈悲の反対は無慈悲よね?」
その考え方をクーベルは否定した。
何故なのか私にはすぐには理解出来なかったが、彼は丁寧に教えてくれる。
「僕の例になってしまうけど、信仰を無くしたからと言って、それは堕落したと本当に言えるのかな?
例えば、林檎が一つある。
その林檎が、食べたのだったり施したりで無くなったら、それは悪い事?」
それは違うと、私にもわかる。
つまり、信仰が無くなったと言えど、堕落したわけではない。
慈悲の心が無いのだとしても、それは決して反対の事ではない、対とはならない。
あくまでも、そこに存在していない。
それだけの事だと、クーベルは言うのだ。
「慈愛、慈悲の反対は、残酷である事。
けれど、それは悪い事ばかりじゃないんだ。
これも一例だけど、生きるには食べなければならない。
食べるには命を奪わなければならない。
それをするには、残酷でなければいられないじゃない?
愚かさも臆病も贅沢も堕落も絶望も、全部乗り越えなければ、変えようと思わなければならない事だけど、残酷である事は必要だったんだ。
だから、エルハルは残った。」
真実かどうかはわからない。
だが、嘘だとも言い切れない程度には、あり得そうな話だと思った。
「他の四柱もそうだと思うけど、イルハルの事は特別恨んでないんだ。
そういう性質を備えてしまった。
それは悲劇みたいなもので、きっと彼も、どうしようも無かったんだ。」
苦笑いを浮かべている。
優しく、暖かい印象を受けた。
私は既に、この子供を信じたくなっていた。
しかし、だからこそ慎重にならなければとも思う。
これが悪魔の手口なのかもしれないのだから。
私は信仰を失った。
けれど悪魔の手先になるつもりは無い。
神々の敵になるつもりも無い。
だから、気をしっかりと持たなければ。
そう、クーベルは堕落の悪魔なのだ。
人を堕落させる術なら、幾らでも心得ているだろう。
しかし、逆にも思う。
何をもって、堕落と言うのだ。
神官達に言わせれば、信仰を無くした私は既に、堕落しているだろう。
クーベルに言わせればそれは堕落ではないのだが、この信仰を無駄だと判ずる思想を神の信徒達は聞き入れる事が出来ないだろう。
ならば、彼らにとって私はクーベルに会う以前から、既に堕落していると言うわけだ。
これ以上、どう落ちると言うのか。
「難しい顔をしているね。
きっとこれまでの常識から外れた話だろうし、ゆっくり考えたらいいと思うよ?
急いで理解する必要なんて無いんだから。」
それは確かにその通りだ。
急いでも、私の運命が変わる事は無い。
今はこの子供に任せるしか無いのだから。
洞窟を出て、クーベルは私を流刑地の外へ連れ出した。
「僕一人では、外へ出る事は出来なかった。
この土地は僕を押さえ付け、封じ込めておくためのものだから。
けれど君が来てくれた。
信仰を失った真っ白な君が。
君は僕の影響を受けたけど、僕も君の影響を受けている。
君に寄り、近付く事で、僕の神性が変化した。
変化した僕の神性を捕らえておく事は、この結界では出来ない。
ありがとう、ミサリア。
君が僕を解放してくれた。
だから今度は、僕が君の助けになる。
このまま、君の村まで行こう。
そこで君の見たいものを見て、会いたい人と会おう。」
空を飛び、私達は村へ向かう。
流れる星空は驚く程近く、越えた山は遥か足の下。
馬車に揺られて通った道は既に遠く、山も森も草原も都市も越えて、懐かしい景色を眼下に眺めた。
まだ時間は多く過ぎていない。
しかし、懐かしい。
もう戻れないと思った。
諦めていた風景。
ああ、父よ、母よ、弟に妹よ。
そして、愛しい人よ。
私は、帰って来れた。
村には誰もいなかった。
愛しい人は殺され、弟と妹は全てに愛想を尽かし旅に出た。
父と母は心労により身体を壊し、衰弱して死に至った。
隣に住んでいた、私達に良くしてくれた夫婦が全て、教えてくれた。
そしてもう、村に戻ってはならないと言って、夜の間に送り出してくれた。
水と食べ物を持たせて、涙を流してくれた。
私は、全てを失った。
「人の世は、いつの時代も理不尽が多いね。」
空に浮かび、クーベルは言った。
それは慰めと言うよりは、ただ感想を口にしたに過ぎない。
私の心にも、響くものなど無い。
私は行き場を無くしてしまった。
もう、何処にも行きたい場所など無かった。
「それなら、何処か穏やかなところを探そう。
そこでゆっくり、余生を過ごしたら良い。
僕もそばにいるし、きっと悪くない。」
それから私達は、女性しかいない風変わりな村に住み着いた。
そこで初めてわかったのだが、クーベルは私にしか見えないらしい。
そんな挙動不審な私を村の人々は暖かく迎えてくれた。
家をくれた。
農地に入れてくれて、教えてくれた。
隣には娘ばかり四人持った、茶目っ気のある女性が住んでいて、家族揃って良くしてくれた。
男性は皆出稼ぎしていて、村には一人もいなかったが、私には都合が良かった。
夫婦になる事を急かされなかったし、あの人を今も思い続けている私には、他の男など考えられなかったのだから。
隣の末の女の子が、よく懐いてくれた。
妹が出来たようで、とても嬉しい。
笑顔が本当に愛らしくて、そのまま真っ直ぐ育って欲しいと心から願っていた。
「お日様に向いて、真っ直ぐ歩いて行きなさいね。」
日の当たる庭でその髪を撫でて、弟や妹に言った言葉を、父や母から言われた言葉をその子にも伝える。
「はい!」
明るく朗らかな笑顔で、彼女は答えた。
十二の年に、その子は行方知れずとなった。